第58話

記憶のトリガー


 私はシャワーを浴びて、お母さんに文句を言いに行こうとしたら、お兄ちゃんに手を掴まれた。


「老人を起こすな。うるさいから」


「だって、なんでお兄ちゃんまで呼び出すのよ」とお兄ちゃんの手を解こうと暴れる。


「いや、勝手に来ただけだから」と言って「とりあえず、三人でファミレスに行こう。朝飯奢ってやるから」とお兄ちゃんが言った。


 多分、この中で一番お金持っていない人だと思うけれど、私は腹が立っていたので、奢ってもらうことにした。急いで化粧をして、中崎さんのところにお兄ちゃんが奢ってくれるというので、いいファミレスに行来ましょうと言うと、笑っていた。


「いいファミレスね」と言って、中崎さんが微笑む。


 最初の頃になんだかんだと連れて行った『いいファミレス』ではなく、朝から開いててモーニングできる『いいファミレス』にした。三人で歩くけれど、会話は特に弾まない。早朝はぐっと気温が下がって、寒く感じる。白く朝日で光コンクリートが眩しくて、目を細める。三人でご飯食べようなんて言うから、本当に変だ、と私はお兄ちゃんの影を踏んだ。

 昔は影踏みという遊びをしてて、よくお兄ちゃんとした。影を踏まれたら動けなくなるというルールだった。でもお兄ちゃんは止まってくれないことがあった。今みたいに。


「何歳ですか?」とお兄ちゃん。


「二十五歳です」


「あー、そう…か。同い年? かなぁ。僕、二十六なんだけど」とやたら口数の多いお兄ちゃんは早口になった。


「今年で二十五です」と柔らかく返す。


「一つ下かぁ」


 私は無言で二人の後ろを歩く。一体、なんだって言うんだ。北海道からわざわざ帰ってきて、年齢聞いて…と腹が立っていた。


「…男前ですね?」


「あ、ありがとうございます」


 お兄ちゃんは明らかに返しの「お兄さんも」と言うのを待っている。でも中崎さんは何も言わずに普通に歩いていた。そんな調子で、少しも楽しくない朝の散歩が終わりを告げる。ようやくいいファミレスについたのだ。


「お兄ちゃん、全員の分、奢ってよ?」


「任せとけ」と言ったのに、値段を見たら「こんなに高いなんて」と呟いていた。


「僕が出しましょうか」


「いえいえ」と言いながら、明らかに震えている。


 飛行機代だって高かっただろうに、つまらない興味本意で来るからちょっとは辛い思いをしたらいいと私は思って、一番高いセットを頼んだ。中崎さんは控えめに安いものにしていた。お兄ちゃんはドリンクだけにしていた。どうせ私の皿から取るつもりだろう。


「それで?」と私がお兄ちゃんに聞いた。


「…いや、本当に、十子に…彼氏じゃなくても、家まで連れてくる友達ができたって聞いて…ちょっと嬉しかったんだ」


「え? どうしてお兄ちゃんが?」


 そう言うと、お兄ちゃんは私の嫌な記憶の茉莉ちゃんと剛君のことを語った。私が悲しくて惨めな気持ちになる話だった。


 優しくしてくれた剛君に懐いていた私は、剛君の妹の茉莉ちゃんに嫉妬されて、ちょっとした嫌がらせを受けた。そこでお兄ちゃんは助けようとして言った一言で、剛君に「変な人間だから」と思わせてしまった、と反省していたと言う。当時は理解できなくて、泣きながら帰っていく姿を見てもよくわかっていなかったらしい。

 でも後に


「お前の妹のさ、十子ちゃん…。一緒にいて気持ち悪くない?」と剛君に言われ、自分も傷ついた、と言った。


「気持ち悪いって…」


「いや、なんか全部分かってそうだから。そう言うの、一緒にいるのってさ」


 言いづらそうな友達の言葉の行方をあまり考えもせず、同調している自分も嫌だった、と言う。


「俺、今でもそうだけど、理系だから…ちょっと言葉足らずで。あの時、ちゃんと説明できたら…って。後悔してて。でも十子だけ遊びについて来なくなって。学校でも一人になってって聞いても、なんか何もしてあげられなくて。周りにはもっとフォローできる兄もいるのに…。ずっと気に病んでて。俺も人間って難しいってそれで思うことがあったから、動物相手の医者になろうって思ったんだけど…。ずっと…十子から逃げてたこともある」


 そんな風に心配してくれているなんて思いもしなかった。


「だから…彼氏じゃなくても…友達だったとしても…家に来てくれる人がいるって聞いて、嬉しかったんだ」


 お兄ちゃんが悲しい気持ちを共有してるなんて思ってもなかった。どうして動物のお医者さんになるのか聞いたことがある。


「うーん。動物は素直だから」とかしか言ってなかった。


 そこまで行くにはいろんな思いがあったんだな、と私なりに理解した。


「いいよ。お兄ちゃん。奢ってあげる。その代わり一番安いの」と言って、私は追加注文した。


 そう言ってあげないと、勝手に自分で思い込んだ罪の意識を軽くはできないかなと思って。


「まぁ、興味もあったけどさ。十子に異性の友達っていうのが」


 やっぱりか、と思って、一番安いので良かった、と思う。


「でもやっぱり守りきれなくて、ごめん」


 その言葉がトリガーになった。


 ずっと中崎さんが黙っているので私は不思議に思って、横を見た。中崎さんは私の隣にいて、窓際に座っている。そして涙が目から溢れているのに気がついた。同時にお兄ちゃんも気づいたようだったが、お兄ちゃんは何も言わなかった。

 不思議だけれど、朝日が当たって、その涙はまるで綺麗な絵画のように見えた。


 瞬間、私の頭に


「助けなきゃ」と言う意識が「僕の妹」と言う思いが飛び込んできた。


 横を見ると「僕の…妹」と中崎さんが呟いていた。


 水の中。水中の草が…足を…。


「お待たせしました」


 ウエイトレスの声で映像は途切れた。


 テーブルの上に贅沢な朝食が並ぶ。水の匂い。生臭い匂いが残っていて、私は手の甲で鼻を押さえた。


「あのさ…食べよ」と遠慮がちにお兄ちゃんが私たちに声をかけてきた。


 そしてお兄ちゃんは私のお皿からソーセージを取って行った。だから私はお兄ちゃんのプレートのベーコンを取り上げる。絶対ソーセージの方が損だけど、仕方ない。あっちのお皿は本当に何もないのだから。


「十子、そう言うところ、隠した方が…」と言うと、中崎さんは「仲良くて、羨ましいです」と言った。


「え?」と驚くお兄ちゃんに中崎さんは自分のことを語った。


 記憶のない幼少期、育ての親と暮らしていた事、そこに生まれる予定だった子供がいた事、そして私が見える人だったから、仲良くなろうとしたことも全て話した。


「…え? じゃあ…。十子を利用しようと…したんですか?」とお兄ちゃんはなぜか敬語になっていた。


「すみません」


 お兄ちゃんは食べるのを辞めて黙り込んだ。私は中崎さんに謝られる度に苦しくなる。苦しくなって、辛いから席を立って、ドリンクバーを取りに行った。お兄ちゃんの気持ちも中崎さんの反省も何もかもが自分に重くて辛い。このまま家に帰ったら、お兄ちゃん、支払いに困るだろうなとは思ったけれど、帰りたくなる。ドリンクを選ぶふりして、時間を稼ぎつつ、私は何を選べばいいのか本当に迷っていた。


 お兄ちゃんと中崎さんが向かい合って、何か話している。きっと私のことだと思うけれど、私だって、どうしようもないのに、お兄ちゃんがどうにかできるわけはない。


 憂鬱な気持ちのまま、私はトマトジュースのないドリンクバーを眺めてぐるぐる回っていた。

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