第51話

もやもやする朝


 眠りから覚めて目を開けると、そこはイケメンの顔が大アップであった。心臓がいきなり速度を上げて動き出す。なぜなら、美しい目が開かれてこっちを眺めていたからだ。


「あ…おはようございます」


「おはよう。十子ちゃんって寝顔も可愛いね」


「え?」と驚いていると、ぎゅっと腕を回され、抱きしめられる。


「抱き心地のいい抱き枕だ」


 私の胸がぎゅっと縮まる。中崎さんの匂いに包まれて、切なさで苦しい。


「中崎さん…」


「何?」


「セックスって…どう始まるんですか?」


「え?」と驚いたせいか、腕の力が抜けて、隙間ができた。


「こうして、一緒に寝ても何もないのと、セックスが始まるのと、何が違うのかなって思って。私に色気があったら始まりますか?」


「十子ちゃんに色気…はともかく…」と言って、私のおでこを撫でて、髪を上げる。


「そう言うことは大切にしないとって思ってるから」


「じゃあ…して、いいですよって私が言ったら、できますか?」


「できるけど」


「じゃあ…しませんか?」と私は起き上がって、勢いよく、中崎さんの上に覆いかぶさった。


「え?」


 中崎さんを下にして、私は真剣に聞いた。中崎さんの手が私の頬に触れる。優しく撫でてくれて、微かに微笑んだ。


「しない」


「どうして?」と私が聞いても、無言で、私の背中に手を回して、自分の胸に寄せた。


 何度も背中を中崎さんの手が往復して撫でてくれる。それ以上な何も起こらない。


「今、幸せだから」


「え?」


「こうしてると幸せだから、セックスはしない」


 抱き枕になった甲斐、あったのだろうか。少しは中崎さんのためになれたのだろうか。でもセックスでは幸せにならないのか、私には分からなかった。


「セックスしたら幸せじゃないですか?」


「…どうかな。でも…今感じてる幸せは弾けて消えると思う」


 私は幸せになると思ってた。恋人同士がお互いを求め合う行為だと思ってた。


「経験上?」と聞いたら、笑われてしまった。


「十子ちゃんは幸せになって欲しい」


「…今、私は幸せじゃないです。もやもやします」と私は上半身を反って、中崎さんの顔を見ながら抗議した。


「もやもや?」


「はい。だって…中崎さんのこと、好きなのに。それにこんなに近くにいて、もやもやしないわけないです」


 だって、こんなに体をくっつけて、心臓の音まで聞いて…、と顔をつけて、頭を左右に振る。


「ごめん」


 ずるい。こうしていつも謝られる。


「じゃあ、朝ごはん、買いに行きませんか?」


「十子ちゃん、その格好ではちょっと外に出せないから、行ってくるよ」


「え? じゃあ…着替え」


「いいよ。そのままで。可愛いから」と言って、中崎さんは私をそっと横にして起き上がる。


 私もベッドから出ようとすると、軽く抱きしめられて「ありがとう。幸せな朝だった」と言われた。


 何もかも「ごめん」と「ありがとう」で誤魔化されて、私の気持ちは置いてけぼりにされる。


 自転車で行くからすぐだよ、と言って中崎さんはスェットのまますぐに出て行った。私は一人ぼんやりベッドの上で白い朝の光を見ていた。


「幸せ?」と首を傾ける。


 トラちゃんがベッドの上に飛び乗ってきた。 


「トラちゃん。…別に結婚しなくても付き合ってくれたらいいのにね。それで子どもできたら、一人で育ててもいいなー。お母さん喜ぶと思うのに」


「にゃーん」


「中崎さんとの子供…」と想像したらきっと可愛い子だ、と思ってトラちゃんを見ると、トラちゃんは興味なさそうに、ベッドから降りて、お水を飲みに行った。


 私もベッドから降りて、トラちゃんのお皿の餌を交換して、液状おやつをあげる。トラちゃんが途端に機嫌良くなる。


「トラちゃん、人間化したらすごく格好良かったよ。アイドルみたい」


 必死でおやつを食べる姿を見ていると、猫にしか見えないけれど、昨日の少年は本当に綺麗だった。


「あ、それからキスは人間には特別な意味があるから…。簡単にしちゃダメだよ」


「にゃーん」と何か話してくれるけど、さっぱり分からない。


「…だって、キスって好きな人とすることだから」とトラちゃんに言って、私はキスもしていないのに、なぜか早まって、迫ってしまったことが急に恥ずかしくなった。


 液状おやつを食べるトラちゃんはちょっと動きを止めて、私を見たけれど、すぐにまた食べ始める。実際の中身は空いたお皿の上に溜まっていく。一袋出し終えたら、私は勿体無いけれど、燃えるゴミにする。


 すぐに中崎さんはパンを抱えて戻ってきた。


「ごめんなさい。あの…さっきははしたなく…変なお願いして」


「いいよ。素敵なお願いだったから、ちょっと揺らいだけど」と笑いながら言う。


「そうですか? 全然、受け入れてもらえそうになかったです」と言うと、苦笑いをされる。


「それはね…ちょっとでも油断したら…。止められないと思ったから」


「…私でも?」


「十子ちゃんだから。でもだから…すごく我慢した」


(なんだ、それ?)と思いながら、私はパンの袋を覗く。


 美味しそうなクロワッサンや、サンドイッチが入っていた。


「わー、美味しそう。目玉焼き焼きましょうか? あ、スクランブルエッグとかならできます」と言うと、笑いながら「一緒に作ろう」と言われた。


 そんなに私の料理姿は不安を煽るのだろうか、と内心思ったけれど、一緒に台所に立って料理? をするのは楽しかった。


「中崎さんのファーストキスって…どんな感じでした?」と無事にできたスクランブルエッグをお皿に移しながら聞くと、困った顔をして笑う。


「内緒ですか?」


「…それは、十子ちゃんが初めての時に感じたらいいことだから」


「えー?」


 そんな日が来るとは思えないけど…とため息を吐く。


「どんなシチュエーションがいいの?」とスクランブルエッグの上にチーズとケチャップをかけてくれる。


「シチュエーション?」


 考えたことなかったから、私は色々想像してみた。


「よくあるのは…観覧車の頂上ですよね。…校舎の影とか? それはもう無理だけど…。後は…南の島の星空の下でとか?」


 考えてみたけれど、どれもしっくりこない。そもそも相手もいないのに、考えても意味がない。


「でも場所じゃなくて…本当に好きになった人とがいいです」と言って、中崎さんを見ると、目を逸らされる。


「…それはそうだね」


「もー。じゃあ、私が出向になったら、お別れのキスをお願いします」


「え?」


「だって、最後にキスくらい中崎さんとしたいです」


「…分かった」


「やったー」と私はちょっと気分が明るくなった。


 出向を受け入れよう。そう思える要素ができたから。


「キスって、こうして目を閉じてたらいいんですか」と私はちょっと上を向いて、目を閉じる。


 一応、確認のためにレクチャーを受けておこうと思ったのだ。


 それなのに突然、軽く、本当に軽く、唇に温かくて柔らかいものが触れた。目を開けると、中崎さんが私を見ていた。


「…ファ…スト…」


 驚いて、涙が出た。


「ごめん」


 涙が別に悲しいわけでも嬉しいわけでもなくて、ただ驚いて、出た。


「び…くり…しまし」


「ごめん。可愛くて」


 私は両手で口を押さえる。軽く触れた時、急に中崎さんの匂いが濃くなった。


「でもね。十子ちゃん、これ、キスじゃないから」


「え?」とこれもまた驚きで涙が止まる。


「猫の挨拶だから」


「キスじゃないんですか?」


「そう、人間のキスは…違うから」


 言われていることが分からなくて、私は首を傾げた。


「ノーカンですか」


「うーん。0.1くらい?」


「え? 秒数の問題ですか?」


「色々」


 それ以上教えてくれそうになかったので、私は台所から戦線離脱して、鞄から携帯を取り出す。グーグル先生に聞いてみた。熟読した結果、0.1というのはあながち間違いでないような、そうでないような気がする。


 『このキスは 猫の挨拶 君がいう

      十月六日はキス 未遂記念日』


 一句、できました。

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