第49話
伝説のクマ
お母さんに電話をしたら、ため息を吐かれつつ、電話を切る間際にぼそっと「可愛い孫ができるかもしれないし」と言われた。
中崎さんはTシャツを渡してくれたけれど、下着とストッキングだけは買いに行きたくて、コンビニに行こうとしたら、一緒に行くことになった。
「ちょっと飲み物買い足ししたいから」と中崎さんに言われる。
エレベーターを降りて、コンビニまですぐ近くだと言うけれど、中崎さんが「手を繋いでいい?」と聞いてきた。
「いいですけど…」
ご祈祷の効果でまだ霊を寄せ付けないから、と言わずに黙って手を繋いだ。私だって、手を繋ぎたかったから。どうしよう、どんどん好きになってしまう。こうして一緒に過ごしていたら、嫌いになることなんてなくて、好きな気持ちから引き返せなくなる。
『ごめん』
あの日、そう言われて…それで婚活しようと思ったんだ。忘れるために。
「十子ちゃん」
優しく呼びかけられる声も、笑顔も。
「はい?」
泣きたくなるほど好きになる。
「本当にずっと独身でいるつもりなの?」
本当は離れたくて、できなくて。霊やお化けを言い訳にして、お泊まりまでしてる自分が嫌で。でも断れなくて。
「それは…分かりませんけど。もう婚活は…ネットでは諦めます」
出向…もいいかもしれない、と思った。誰も知らない場所で一から始めるチャンスをくれたのかも、と私は考える。それまでは中崎さんのために頑張ろう。少しでも好きな人が幸せな気持ちで生きてけるように、お手伝いできたらいい。それが私の好きっていう気持ちの表し方だから。
「ちょっと安心したけど…」
妹みたいに可愛がってくれてる中崎さんだから、距離を置くしかない。
「じゃあ…、いつか結婚相手が決まったら、会ってくださいね。それでジャッジしてください」
そう言うと、少し目を見張ってから
「決まってからじゃ遅いから…。付き合う前とかに会わせて」と言う。
「付き合う前って…それから振られたら意味ないじゃないですか」と頬を膨らませて抗議した。
「まぁ…確かに」
手を繋いでくれてるのに、少し悲しくなった。
それ以降は無言で歩いていると、コンビニが見える。夜のコンビニの明るい蛍光灯はなぜか気持ちの拠り所に感じた。
無事に買い物もして、中崎さんは冷蔵庫にミネラルウォーターや牛乳を入れる。
「先にシャワー使って」と言われて、バスタオルとTシャツと短パンを渡してくれる。
中崎さんのシャンプーをお借りして、同じ匂いになる気がした。そこまでは良かったのだが、お風呂を上がって、Tシャツを着るとぶかぶかで大きい。短パンも大きい。まるで幼児が悪戯で大人の服を着たみたいになった。
「中崎さーん」と言って、そのまま出る。
もう少し小さいのはないか、と聞こうと思ったが、姿を見られた瞬間、笑いを堪えられていた。顔に手を当てて、必死に笑いを堪えて「可愛い」と言ってくれる。
「もう少し、小さいのって…ないですよね」
「ごめんね。でも可愛いからいいよ。それで」とまだ顔に手を当てている。
そして入れ違いに中崎さんがシャワーを浴びに行った。私はお皿を借りて、猫のカリカリ餌と水を部屋の端に置いた。
「トラちゃん。もし何か思い残すことがあったら、夢の中で言いにきてくれない?」とカリカリを頬張っているトラちゃんに言ってみる。
「にゃん」とちゃんと返事してくれた。
猫は人間の言葉が分かるのだろうか? と思ったけれど、人間は猫の気持ちが分からない。しばらく様子を見ていたが、私は梶先輩に電話することにした。
「十子? どうした?」とすぐに出てくれる。
「あの…先輩は明日の予定なんですけど…。夕方の六時の予約でいいですよね?」
「そうよ」
「服…今日と同じですけど…行きますね」
「え? どうしたの?」
私は中崎さんの家で泊まることになった、と説明した。
「うちに来たら良かったのに」
「それが…猫ちゃんがいて。その子が用事あるみたいで」
「猫? 十子に?」
「まぁ、生きてる猫じゃないんですけど」
「十子…。不思議な子だと思ってたけど。あ、そうそう。昼前に部長が人事部に駆け込んでたけど、十子、あれからどうなったの? すごく気になってて」
梶先輩にも出向のことを話した。誰にも喋らないでくださいと言って話す。
「出向は流石にひどいから…取り下げになると思うけど」
「でも…あの…それもいいかなって思ってて」
「え?」
「環境を変えてみたくて」
「…そう。でも私は寂しくなるけど」
梶先輩がそう言ってくれて、涙が滲む。
「よく考えてみなさいね。また相談に乗るから」と私の鼻を啜る音を聞いたからか、話を終わらせてくれる。
「ありがとうございます」
そう言って、電話を切る。私は脱いだ服を畳んで、紙袋でも借りて持って帰ろうと思った。下着は洗いたかったけれど、洗濯機に入れるのも憚られると悩んでいると、中崎さんが出てきた。お風呂上がりの濡れた髪もティーシャツのラフな姿も素敵で、見惚れてしまう。
「十子ちゃん、洗濯する? 一緒が嫌だったら、先に洗ってもらっていいけど」
「え? あ、一緒でも…」と私はおどおどしてしまう。
「じゃあ、今のうちにして、干してたら明日の朝には乾くと思う」と言われたので、一緒に洗濯をすることになった。
今日、買ったばかりの柔軟剤を入れる。私はパンツを見られるのが恥ずかしくて、シャツに包んで入れた。洗濯機は動き始めた。洗ってもらうとスッキリした気持ちになる。うっかり鼻歌を歌いそうになって、リビングに戻ると中崎さんがコップに水を入れてくれていた。
「どうぞ」と言われる。
気も聞いて、顔も良くて、優しくて…本当に心からのイケメンだ、と私は思って「ありがとうございます」と言った。
明日は夕方六時にお店に行くのだけれど、今日の服を洗濯してもらえてよかった、とお礼を言った。
「分かった。流石に…その姿じゃね」とまた笑われてしまった。
「うーん。じゃあ、ズボンにシャツを入れたらマシに見えますか?」と言って、シャツの裾をたくし上げようとしたら、中崎さんに手を掴まれた。
「十子ちゃん、そういうこと…男の人の前でしない」
「あ…。ごめんなさい」
お兄ちゃんがいて、私は気にしたことがなかったけれど、指摘されて、初めて恥ずかしくなった。
「本当に心配になる」とため息と共に手を離された。
椅子に座って、黙ってお水を飲む。
「…十子ちゃん、小さいから一緒にベッドに寝れるね」
「寝れません(違う意味で)」と私は顔を赤くして抗議した。
洗濯が終わるまでテレビをつけてくれていたけれど、私はうつらうつらしてしまっていた。洗濯機の終了音で目が覚める。
「あ…」と気がつけば、肩にブランケットがかけられていたが、テーブルに突っ伏して寝ていた。
よだれが、と思って起き上がると、洗濯物を籠に入れてベランダへ移動している中崎さんが目に入った。
「待って…」と慌てて私は中崎さんのところへ向かう。
「寝てていいのに」
「そう、そう…じゃ…なくて。私が干します」と籠に手をかけた。
「あ、ごめん。そうだよね」
「…み、見ましたよね」
「…ごめん」
私は恥ずかしさのあまり倒れそうになる。レースの綺麗なショーツだったら良かったのに。なんならセクシーなTバックでもマシだった。お尻部分にクマのプリントがされた綿百パーセントのパンツだった。今履いているコンビニで買ったショーツの方がまだマシだった。
(恥ずかしすぎて、死んでしまいそう)
「ごめんね。でも…本当に可愛い」と慰めの言葉と共に、かごを渡された。
私はのろのろとベランダに出て、ゆっくりと洗濯物を干す。バックプリントのクマのパンツを取り出して、端っこの方に干す。このパンツは近所で下着泥棒が横行した時ですら、生き残ったという伝説のパンツだと言うのに…。他のパンツが出てきた。中崎さんのパンツだ。ごく普通の綿の黒いボクサーパンツ…を手にしている自分に我に返る。慌てて、干す。洗濯物をいくらゆっくり干しても、いつか終わりが来る。最後の一枚を干し終えても、部屋に戻る勇気がなかった。
こつこつとベランダのガラス戸を中から叩く音がする。
「ごめん」と言っている中崎さんがいる。
「うー」と私は唸った。
おいでおいでをされる。でも私は中に入る勇気がなくて、ガラス窓の前に立った。中崎さんの手がガラスの前に置かれる。
「手、合わせて」と声がガラスの向こう側で聞こえる。
ガラスを挟んで手を合わせる。冷たいガラスが少し温かく感じる。
「猫の挨拶しよっか」と向こう側の声だからか、なぜか現実感が薄れる。
中崎さんの顔が近づく。ガラス越しでもどきどきする。
「ほら、挨拶だから」
私は目を閉じて、おでこをガラスにくっつけた。ひんやりとした感覚。ほんの少し、気のせいかもしれないけど…温かくなったような気がして目を開けた。中崎さんがガラス越しに額にキスをしてくれていた。
「早く入っておいで。風邪ひくから」
ガラス戸がゆっくりと開けられて、私は抱きしめられた。
「体、冷えちゃってる」
伝説のクマのパンツのおかげ、と思いながら、しばらく中崎さんの温もりを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます