第40話

覚悟


 ランチも社食になったが、中崎さんが心配そうについて来てくれる。


「うどんにしようか?」


「もっと栄養のある方がいい?」とメニューの前で自分のを決めるより、私のことばかりだ。


「…あの野菜ジュース」と言うと、恐ろしい勢いで「あ、トマトジュース? コンビニ行ってくるから、座ってて」と言って、出て行った。


 私はその後ろ姿を見て、なんて声をかけたらいいのか分からなくなる。普通にお昼の日替わり定食を二つ頼んで、席に運んだ。今日の日替わりは麻婆豆腐だった。


「十子、倒れたんだって?」と梶先輩が現れる。


「あ…はい」


「定食二つ? どうしたの?」


「中崎さんの分です。倒れたの…運んでくれたお礼に…」と言うと、梶先輩がなんだか切なそうな顔をする。


 しかし今朝、梶先輩を見るとドキドキするという現象は治っていた。


「じゃあ、私も買ってくるね」と言って、並びに行く。


 なんだったんだろう、と私はぼんやり考えた。梶先輩のことを見て、胸がドキドキしたのはまるで私が恋をしていたみたいだった。そして倒れる直前…私が確かお守りを取り出して、倒れた。このことから導き出されることはー、私はあの男の人に憑かれたのかもしれない。昨日、姿を見ることはなかったけれど、もしかしたらあの男性が憑いていた…。そしてその人は梶先輩が好きだった?


「十子ちゃん」と目の前にトマトジュースが差し出される。


「あ、ありがとうございます。あの、運んでくれたお礼に」と定食を一つ、中﨑先輩の前に差し出す。


「え? いいの?」


「はい」と言って、私は俯いた。


 今はちゃんと中崎さんを見て、居心地が悪いような気持ちになっているのだから、元に戻ったと言える。それはそれで安心した。


「今朝、倒れたの、もう大丈夫?」と心配そうに聞く。


「はい。…あの」


「どうかした?」


「中崎さんの…川に行くのはいつにしますか?」


「あ…来月の連休に行こうか」


「はい」と私は携帯を取り出した。


「えっと、体育の日?」


「うん。ちょっと遠いから泊まりで」


「分かりました」と言って、入力する。


「泊まりで」


「はい。一泊ですよね」と私は携帯から顔を上げる。


「そう。一泊。泊まりで」と念を押すように言われる。


 宿泊施設が空いてるか心配なのだろうか。確かにひと月は切っているのだから、空いてないのかもしれない。


「あ、じゃあ、どこか駅前にホテルとかありますか? 連休はどこも高いかぁ…」と場所を聞いて、検索を始める。


 じっと中崎さんに見られる。


「ホテル…いいの?」


「え? 旅館とかがいいですか?」


「俺と二人で外泊だよ?」


「え? 外泊? 部屋二つ取れるか心配ですよね」と言うと、長いため息を吐かれた。


「あのね。十子ちゃん。男性と二人で泊まりって言われて、あっさり返事しない」


「…あ」


「本当に心配になる」と言って、顔を横に向けられる。


「え? だって」


(そういうことを想像する方がすけべじゃないですか)とは言えずに、ぱくぱくさせる。


 そうしていると、上から美人オーラを漂わせている村岡さんから声をかけられた。持っているランチはサラダランチと豆乳だ。


「最近、仲良しなんですね? 小森さんと」


「あ、今、二人で旅行の計画をしてるんです」とさらっと中崎さんが言った。


「旅行? あら? そんな仲でしたとは」とこめかみに青白い血管が見える。


「っていうか、二人でグループ旅行の計画をしてるんです」と私は慌ててそう言った。


 そこへ梶先輩がお盆を抱えて来て「そうそう。だから退いてくれる?」と言ってくれた。もちろん横には吉永さんもいる。そんな訳でサラダランチを持った村岡さんはこめかみを引き攣らせながら、違う席に着いた。


「旅行?」と嬉しそうに聞いたのは吉永さんだった。


「あ…それは…」


 村岡さんにはグループと言ったが、これは中崎さんのプライベートな問題なので、一緒に行くわけにはいかない。


「吉永さん。ごめんなさい。私…、本当は中崎さんと二人っきりで行きたいんです」と身を乗り出しつつ、小さな声で言った。


 驚いて、何も言えない吉永さんと、心配そうに私を見る梶先輩。そしてなぜか中崎さんは目を大きくして、次第に顔を赤くしていた。


「まぁ…。そういうことなら」と吉永先輩が椅子に座りながら、ぎこちない様子で中崎さんの方を見た。


 無言のランチになる。だれも何も話し出さない。食べ終えて、私はトマトジュースにストローを差し込んだ。


「小森ちゃんを…よろしく」となぜか唐突に吉永さんが言う。


「何言ってんの?」と梶先輩が言うと「なんか…妹が…初めてのお泊まりをするっていう気持ちで」となぜか涙ぐんでいた。


「え?」と流石に中崎さんはリアクションに困っていた。


(そう言えば、お兄ちゃん、元気にしてるかな)と本当のお兄ちゃんのことを思い出す。


 そんな訳で吉永さんの中で私は猪突猛進に中崎さんに恋してる…ことになった。


「小森ちゃんは…ほら、なんて言うか、あれだから…あの…。かわいいかわいい良い子で…まだお子様な…」と異様に心配してくれている吉永さんに私はテーブルの下で足を軽く蹴ろうとするが届かず、中崎さんの足に当たってしまう。


「あ、ごめんなさい」と言うと、顔を赤くした中崎さんが「いいえ」となぜか他人行儀な言葉で返事する。


 仕方なく「それ以上喋るな」という気持ちで、吉永さんを睨む。


「十子…。今日もうち来る?」


「あ、タコパはいつするんですか?」と吉永さんの興味が逸れた。


 タコパは明日になった。そして今日は梶先輩が少し仕事が遅くなるというので、その間、中崎さんと一緒にご飯を食べることになった。それは吉永さんがいないところでこっそり梶先輩が根回しをしてくれたのだが、私としてはいいのか悪いのか分からない。


 仕事が終わると、もう人目を気にしなくなったのか、中崎さんが私の机のところまで迎えに来た。


「十子ちゃん、何食べる?」


(すでに十子ちゃん呼びも直す気がなさそうだ)と思いながら私は立ち上がった。


「えっと…」


 周りの女性の目が突き刺さる。帰る準備しているのに、なかなかみんな出て行かない。じっとこっちを見られているのが分かる。なんだか恥ずかしくて、リクエストもしにくい。私は机のメモに「おしゃれなとこ」と書いてみた。いつも焼き鳥とか変態付き居酒屋とか行くけれど、中崎さんと二人だったら、ちょっとそんなところにも行ってみたくなる。

 そのメモを取り上げて、見てから、ちょっと笑われたけど、でも行ってみたいのだから仕方がない。そのメモを大事そうに胸のポケットにしまって、しばらく考える。


「じゃあ、ビーフシチューの美味しいところは?」


「行きたいです」と私は本気で喜んでしまった。


 私たちが出ると、そこで固唾を飲んでいた女性たちも会社から出てくる。きっと後をつけられるのかもしれない、と思ったけど、こうなった以上、気にしないことにした。もともとシスターズを連れていたのだから、肉体があるかないかの差だから同じようなものだ。しばらく歩くと、駅を越えた裏通りにレンガ作りの洋食屋さんがあった。


「ここですか?」と嬉しくて声が跳ねてしまう。


「そう。いい?」


 もちろん首をぶんぶん上下に振る。お店は少し暗い照明で、大人の雰囲気がする。壁に黄色のガラスランプが付けられていた。案内された席に座って、私は中崎さんのおすすめのビーフシチューを頼んだ。注文を待っている間、周りをきょろきょろ見回してしまう。その様子がおかしいのか、柔らかく笑いかけられる。


「十子ちゃんとデートしてるみたいだ」


「はい。好きです」


「え?」


「好きです」


 言ってはダメだと思っていたのに、堪えられなかった。あーあという気持ちもどこかで感じつつ、私はもう抑えきれない。


「中崎さんのこと…、好きです」


 目を見てそう言った。でも私は何も期待していなかった。ただ私が好きだという気持ちを伝えたかった。そうでなければ、中崎さんはずっと私の恋の練習相手を延々と続けてくれるだろうから。


「だから…旅行も大丈夫です」

 

 焦ったように中崎さんは首を横に振る。


「十子ちゃん?」


「…もう私の練習相手はしなくていいんです。だってよく考えたら…私みたいな…子供のまま年だけ取った女が…中崎さんみたいな素敵な人と一緒にいて、好きにならないわけないなって思って。やっぱりそうなっちゃって…」と曖昧に笑う。


 何か言おうとしてくれる中崎さんが私に何も言えないこともすごくよく分かる。


「今日、デートできたから…。充分です。恋愛したことのない私が人を好きになって、その人とデートできて…。もう充分です。それにこんな素敵なお店。すごくいい思い出になります。後は中崎さんの川に行って…。でもきっと中崎さんが心配されてるようなこと、何もないです。私はそう思います」


「十子ちゃん…」と言う台詞を私は切った。


「今はデート中ですから。この話は終わり」と言って、私は口を真横にひいて笑ったつもりだった。


 でも中崎さんの前で泣きそうになる。頰の筋肉が震えるので慌ててトイレに行く。ここには変態がいなかった。ちゃんと前回の失敗を踏まえて、鞄を持ってきたので、化粧直しをする。綺麗にリップも塗り直した。そして何度か鏡の前で笑顔の練習をする。筋肉が張り付いたような笑顔だったが頑張って練習する。


「よし」と私は気合を入れて、席に戻った。


 前菜の野菜のテリーヌが運ばれる。グリーンピースとヤングコーン、パプリカがコンソメゼリーで固められていて、綺麗な彩りだった。


「わぁ。すごい」と私は喜ぶ。


「十子ちゃん…。話いいかな?」


「話ですか?」と私はフォークを刺したまま、中崎さんを見る。


 ぷるぷる震えるテリーヌが行き場を失っている。私は諦めて、お皿に戻す。


「デートの極意ですか?」


 中崎さんの視線が辛くて、私はわざとおどけて聞く。


「それとも…」


「そうじゃなくて」


 聞きたくないって言っても、言いそうな勢いだったので、私は黙って下を向いた。


「ごめん」


 謝られたくなかった。私は中崎さんがしてくれたことはデータを消されたこと以外は感謝している。あの女の子のことだって、お母さんの病院まで中崎さんが運転してくれて助かった。


「私は…ありがとうございますしか…ないです」


「本当に…ごめん」


「もう、それ以上謝ると、デコピンしますよ」と私は勢いよく手を前に突き出す。


 その手を片手でそっと掴まれて、テーブルの上に置かれる。手の上に手を重ねられた暖かさが苦しくなる。


「…十子ちゃんのことは…可愛いって思ってる。いつも真っ直ぐで、泣き虫だけど…。好きって言ってくれて、どれだけ嬉しかったか」


 私は何を聞かされているんだろうと、そして中崎さんは何を謝っているのだろうと思った。鮮やかな野菜のゼリーは少し崩れたまま、黄色いランプの光に照らされている。

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