第46話

暗い、暗い地下牢。太陽の光が一筋も入らない暗黒の世界に、彼女はいる。

十年以上ここにいると、今が朝なのか夜なのか、新鮮な空気がどのようなものだったか、すっかり分からなくなってしまう。けれども、彼女は暗黒の世界が好きだし、湿っぽい空気も慣れてしまった。

藍色の長い髪は背中を覆う程で、座っているとコンクリートで固められた地面を藍色に染める。蒼い大きな瞳は何処か虚ろで、視線を送る檻を見ているようで.…見ていない。そんな暗黒すらも恐れない彼女にも、一つだけ恐れているものがある。

コツ、コツ。靴の音が地下牢に響き渡り、彼女の蒼い瞳の焦点が合う。誰かが、地上に続く階段を降りてきている。そう確信した彼女は、弾かれたように檻にしがみついた。彼女が動く度に、鎖がジャラジャラと音を立てる。

自身を纏う鎖が煩わしい。しかし、これは彼女の動きを封じているものでは無い。鎖は手足を拘束しておらず、頭、首、胴をぐるぐるに巻いており、僅かに発光している。

十年以上共にしているが、この感覚には全く慣れない。自分の命が、吸われている感覚が。この鎖は呪い。自分の存在が消されてしまう……死の呪い。


「その鎖が怖いか」


いつの間にか鎖を見ていた瞳が、ハッとして前に向けられた。そして、檻の向こうにいる人物を確認した瞬間、その表情が恍惚に染まる。


「ああ…来てくれたのね…」


彼女は熱っぽい瞳で、フードを被った男を見つめた。


「…」


男は何も答えない。彼女と同じ蒼の瞳に光は無く、酷く冷たい色を帯びていたのだが、熱に浮かされたような表情の彼女は全く気がつかない。


「ねえ、私あなたを待っていたのよ。この暗闇の中、ずっと……。やっと、迎えにきてくれたのね」


端正な顔の男に手を伸ばしたいが、この檻の間に手を抜けさせる事が出来ない。この檻は彼女を逃がさない為の呪縛がかけられているからだ。それを聞いた男はハッと冷笑すると、檻越しで顔を近付けた。


「愛する人の顔まで忘れたか。愚かな魔女」


彼は彼女の待ち焦がれる男ではない。だが、それに気がつかない女は少女のように喜びながら、言葉を続ける。


「早く、早くここを出ましょう。あなたさえいれば、私は何も怖くないの。他のものなんて何も要らない」

「…重症だな。ここへは何度も来ているが、私を愛する人と間違えるのは初めてだ」


色めき立つ女とは反面に、冷酷な男は彼女の存在を無視して檻に手を当てた。この、呪縛を掛け直す為に。ぽう、と男の手の平に蒼い光が灯り、檻全体を包んでいく。


「ねえ、ねえ、あなたの話を聞かせて…? "あっちの世界”で何をしていたの? ほら、前に言っていたじゃない。あなたには夢があるって。それを叶えられたの?」


男の様子に疑問を持つ事も無く、女は嬉々として尋ねる。


「私、あなたが来てくれると信じてくれたから耐えられたのよ。久し振りにあなたの笑顔が見たいわ。……ねえ、笑って?」


男の眉が、僅かにピクリと動いた。


「…無理だ」

「何で? 私の前にいる時はいつも笑ってくれたじゃない。クレイス、って名前を呼んで笑ってくれたじゃない。ねえ、笑ってよ」


虚ろな笑顔で促す女に、男は歯を噛みしめると突然大声を上げて怒鳴った。


「お前が奪ったくせに、出来るわけが無いだろう!!」


男の叫びは地下牢に響き渡るくらい大きく、悲痛なものだった。歯を噛みしめすぎて、口の端から血が零れ落ちる。魔女は呆けた表情でそれを見ていたが、やがてうふふ、と怪しく笑った。


「哀れな魔法使い。自分のやった過ちを未だに受け入れられないのか。私からあの人を奪った悪人め」


あれほど恋する少女のように見つめていたというのに、男の一言でガラリと雰囲気が変わる。大きな瞳は、冷酷な色が滲み出て口は邪悪につり上がっている。


「違う。私はあの人を奪っていない。お前が現実を受け入れたくないからと造りだした幻想だ」

「幻想はこの世界にとって現実。私にかかれば、幻想は現実に造り変えられるの」


そうね、例えば……と上品に笑いながら、魔女は言う。


「燈の存在が消えてしまったり」

「……どういう、意味だ」


男はグラリとよろめいて頭を抱えた。


(分からない。燈が消えたら……私は“どうなる”?)

「うふふ、怒り以外の感情を奪われたあなたには分からないでしょう?愛する人がいない恐怖、絶望を」

「……」


男は魔女をギラリと睨みつける。彼女の言う通り、分からないのだ。喜び、悲しみ、恐怖、絶望が。


「あなたの感情は、私が大事にとっておいてあるわ」


この、目の前の魔女に奪われたせいで。


「うふふ、どうする? 殺す? 殺したらあなたの感情が戻ってくるかもしれないわね」

「……私は、お前と同類ではない」

「あら、心外ね。私はあなたと同類だと思った事は一度も無いわ」

「それは光栄だ」


爆発しそうな憤りを抑え、男は地下牢を立ち去った。


「……死が約束されているお前には、私が手を下すまでも無い」


その言葉には、どの感情も込められていなかった。

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