第37話
冷えた風が既に渇いた髪を吹き抜ける。ライジルは垂れた前髪をかきあげながら、屋敷の外壁に背中を預けた。
空では月が黄金色に輝いている。自分の瞳と同じ色のそれを見、ライジルは目を細めた。風呂上がりのはずなのに、その頬は土で汚れている。
今、中ではラビィが燈と仲直りをしている所だろう。それを邪魔してはいけないと思い、彼はこうして外で待っていた。
風呂上がりの身体に、夜の空気は肌寒い。上着でも着てくれば良かった、と思いながら虎模様の腕をさすっていると、屋敷のドアが思いきり開け放たれた。
「……ライジルッ」
出てきたのは、白髪の少女。彼女の頬も、ライジル同様土で汚れていた。ラビィの姿を確認し、ライジルは壁から背中を離した。
「…よぉ。仲直りは済んだか?」
「………うん」
ラビィは俯き加減に頷いた。元気が無いので、ライジルは眉を潜めた。
「何だ? 仲直りした割には暗ぇじゃねーか」
「……だって、ライジルにだって酷い事したし……」
「おいおい、発覚した時は反省の色なんて全く無かったじゃねぇか」
ライジルはハ、と笑うとラビィに近付く。
「……それに、おしゃべり草を探してくれたのだって……ライジルじゃん」
ラビィとライジルはイロノ草原でおしゃべり草を探したのだ。おしゃべり草をほとんど見つけたのはライジルだった。
「……」
ラビィの前まで来て、ライジルは立ち止まる。そして、大きな手をラビィの頭の上まで持っていく。
「……!」
ぶたれる、と思ったラビィは目を瞑る。……しかし、頭に痛みは襲って来なかった。代わりに、大きな手が彼女の頭を優しく撫でる感触があった。
怖々と目を開くと、ライジルと視線が重なる。目付きはいつものように悪かったが、それでも何処か優しさを感じさせた。
「お前、おしゃべり草見つけるまで絶対帰らなそうだからな。ラビィを連れ戻すと言った手前、一人でのこのこ帰れなかったんだよ」
例えラビィが怒らす事をしても、ライジルはいつも許してくれる。その優しさが嬉しくて……たまらなく、辛い。また涙が滲んで視界がぼやけた時……ライジルの指がラビィの鼻の頭をつついた。
「おら、もう泣くな。目が腫れて前が見えなくなるぞ」
「うるさいな……! そんなに腫れるわけないじゃないっ」
袖で目を乱暴に拭い、ラビィは舌を見せる。それを見、ライジルは口角を上げた。
「やっと調子が戻ったか」
「ライジルなんかに心配されなくても、私はいつもの調子だもんっ!」
「あー、そうかいそうかい」
前髪を邪魔そうにかきあげ、今度はかきむしるように白髪を乱す。髪がボサボサになってしまい、ラビィは頬を膨らませて「何するのよっ」と不平を言うと、ライジルは歯を見せて笑った。
「お前はそれくらい生意気じゃないと、こっちも調子が狂う」
「な、何よぅ!」
「今日はもう寝ろ。じゃあな」
白い頭をポンポン、と軽く叩いた後、ライジルは屋敷へと入っていった。
「………何よ」
一人取り残されたラビィは、撫でられた頭を擦り、ポツリと呟く。
「優しくされたら、こっちが調子狂うのよ……」
渡し損ねた黄色いおしゃべり草を握り締める。強く握りしめていたせいか、花弁の開閉がやや弱まっていた。こっちが喧嘩腰なんだから、突き放してほしい。面倒くさいといって、相手にしないでほしい。
それなのに、ライジルは本気で怒らず、突き放そうともしない。泣けばすぐに慰めに来てくれる。
だから、諦められない。あなたの無償の優しさに、自惚れ、傷付いていく。ラビィはグと唇を噛み締めると、悲痛の声を漏らした。
「嫌いになりたいのに……私に優しくしないでよ……!」
その叫びは誰にも届かず、冷たい空気の中に紛れて消えた。
*****
自分の住み処にしていた花壇は荒らされ、気に入っていた花は食べられてしまった。蒼い髪を一つに束ねた妖精は、暗闇の中をふよふよと頼りなさげに飛んでいた。何となく、あそこにはもう住めないような気がした。
燈に正体を明かすのは予定外だったから。ただ近くで監視していればいいはずなのに、つい話しかけてしまい。花を摘まれ、姿を隠すチャンスだと思ったのに、燈の悲しそうな表情を見ていたら、思わず姿を現してしまった。誰かとの接触は、ウィルに見つかるリスクが高まるというのに。
しかも、“あの人”から受け取った大切な本も燈に渡してしまった。この事が知れたら、あの人は何と言う事か………
『私の分身』
「……!」
ふと、声が聞こえた。直接声を掛けられたものではない。例えるなら……脳に直接響くような。底の見えない澄んだ声。あまりに澄みきっていて……逆に不安を覚える声。妖精はピタリと動きを止め、近くの木の枝に着地した。
「何?」
辺りに誰もいない事を確認し、セイラは頭の中の声に話しかける。
『どうしてあの本をあの子に渡したの』
擬音の無い滑らかな問いに、セイラはポーカーフェイスの眉をやや跳ねさせた。
「……見ていたの?」
『あなたは私の分身。私が作り出したのよ。何をしているかなんてすぐに分かるの』
隠そうとしてもお見通しか……セイラは長く息を吐いた。
「……あの子に渡した方が、いい方向に向かうと思ったからよ」
『何故』
「…さぁ、何故かしら。直感っていう奴?」
正直、自分でも分からなかった。何故あんな事をしたのか。しかし、燈を見つめていたら……この人なら、最善の道へと導いてくれるような気がしたのだ。その答えに、頭の中の声は不満げだった。
『私が創り出したあなたが、直感で動くわけないわ』
「そう言われてもね」
説明しようがないので、セイラは表情には出さないものの、困惑する。本当にそうなのに、声はセイラを信用しない。
『私の魔法で創られたあなたは容姿、性格、癖も私と同じなのよ。あなたの全てが偽物、虚像よ』
声の主は透き通った声で残酷な事を言う。
「………」
自分の存在が虚像と言われ、セイラは無意識に小さな手のひらを握り締めた。でも、否定が出来ない。全ては本当の事だから。この人の願いを叶える為、セイラは創りだされた。
『やっと異世界から遣いが来たのね。名前は燈だったかしら』
「……えぇ、そうよ」
『あぁ……』
ほぅ、と熱いため息が頭の中で木霊する。
『やっと…やっとなのね。あの人の遣いがやっと来てくれたのね…』
「どうするの? 私が燈に聞いた方がいいのかしら?」
『あぁ、やっと会える……あなたに会える……』
自分の世界に入ってしまったようで、透き通った声は熱に浮かされたように呟いている。こうなると、なかなか戻ってきてくれない。セイラはため息を吐き、ふわりと宙に浮いた。
「そんなに急がなくてもいいわね。……きっと燈は、あなたの前に現れるもの」
もう声は返って来なかった。自分の聞きたかった情報を聞け、満足したのだろう。
「……」
セイラは宙に浮きながら、地上を見下ろす。トナマリの町はポツリポツリと明かりが灯っている。夜だから、人通りは少ない。ここに住んでいる人は、平凡な日々を過ごしているのだろう。代わり映えのない毎日を有意義に過ごしている。
その平凡な日々が、セイラはとても羨ましかった。
「未来に、あなたの望む物はあるのかしら……クレイス」
セイラは憂いを帯びた表情で、もう聞こえない声の主に問い掛けた。
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