第10話
目の前には窓があり、トナマリの様子がよく見える……はずなのだが。
「……何で外真っ暗なんですか!?」
先程まで明るかった空なのに、陽は既に沈み、赤色の月が夜空に浮かんでいたのだ。少なくとも二時間くらいしか入っていないはずだ。それにミレジカに着いた時、陽は丁度真上にあった。
「ああ、今日はもう夜にしたのか」
真相を求めて視線を送ると、ウィルはのんびりとそう言った。
「どういう事ですか!?」
「この国の時間はね、王様が決めているんだ。燈の世界では24時間って決められていると思うけど、ミレジカは時間が定まっていない。だから王が気分次第で時間を進めているのさ。どうやら今日は早く寝たいみたいだね」
「時間は王が決める? 早く寝たい?」
さっぱり意味がわからない。この国は一体どうなっているんだと燈の理解メモリはキャパオーバー寸前だ。いや、もうしているのかもしれない。頭から煙が出るんじゃないかと思っていると、それを察したウィルが口を開く。
「まあ深く考えない事だね。この国に理屈なんて存在しない。橘に言われただろう? 君の常識はここでは通用しないって……」
「……!」
そういえば部長がそんな事を言っていたような気がする。確かに、自分の住む現実世界の常識はここでは通用しない。自分の世界では魔法使いなんていないし、動物が混じった人もいないし、いきなり夜になったりしない。常識は、ひとまず捨てておけという事か、と燈は目を瞑って長く息を吐いた。
「……分かりました。もう理屈で考えません」
考えたらキリが無さそうだ。ここにいるまでは、これまで培ってきた一般常識を忘れる事にしよう。
「そうそう。良い子だね」
灰色の魔法使いは美しく笑って燈の頭を撫でた。
「もう! 子供扱いしないでくださいよっ!」
燈は頬を膨らませたが、手を振り払う事はしなかった。
「それじゃあ、今日はもう遅いから仕事は終わり。君の部屋に案内するよ」
「……はい」
早速違和感ありまくりの言葉に突っ込みたくなるが、燈は我慢をした。ウィルが案内したのは、先程自分の名前のプレートが掛けられていた扉の前。
「あ、やっぱりここ私の部屋だったんですね」
「そう、君の家。ここから入れば君の家だから」
ここで一ヶ月生活するのか…そこで燈はハッとした。
「あの…私着替えとか持ってきてないんですけど…」
着替え、化粧道具など必需品を全く持って来なかった。今日持っていた鞄だって応接室に置いてきてしまった。橘は用意していると言っていたが…
「うん。中にあるんじゃないかな」
しかしウィルから返ってきたのは曖昧な答え。燈は仮上司を胡散臭げに見上げた。こんな上司で本当に大丈夫なのだろうか。
「今日は疲れただろう。ゆっくりお休み」
「……はい」
いやいやいや。さっきまで真っ昼間でしたけど、という言葉が喉元まで出かけたが必死に飲み込んだ。
「……今日はありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「うん。じゃあ燈、良い夢を……」
ウィルはそう言うと、燈の額をつんと突いた。一瞬だけ触れた指はほんのりと熱を帯びていたような気がした。
「!」
燈は頬を赤らめて額に手を当てる。その姿を見て微笑むと、ウィルは自分の部屋の扉を開けて中に入っていった。ポツリと一人残された燈。突かれた額は、未だに熱を帯びていた。
「……からかっているとしか思えない」
あんなに綺麗な人がこんなちょっかいを出してきたら誰だって赤面するはずだ。ウィルはそれを見て楽しんでいるような感じがした。
ラビィさんとかにもやっているのだろうか。彼女にちょっかいを出しているウィルを思い浮かべ、燈は少し複雑な気分になった。
皆ももう部屋に戻ってしまったのだろうか。
屋敷の中はしぃんと静まり返っていて、物音一つしない。早く部屋に入ろう。そう思い、燈は部屋の扉を開けた。
「……え!?」
一体何回驚けばいいのだろうか。見慣れた光景に、燈は一瞬息が止まるかと思った。
燈のお気に入りのブーツ。下駄箱の上のガラスで作られた動物の置物。玄関のすぐ横にある洗面台。真正面から見えるリビングに飾られた観葉植物……全て、燈が毎日目にしているものだった。
「……ここ、私の家?」
恐る恐る中に入り、電気を付けてみる。1LDKの少々古いアパートの一室。照らされた内部は、やはり燈の部屋に間違いなかった。
「……何でぇ?」
へなへなとその場に座り込む。自分に用意された為の部屋だと聞いていたが、そのまま燈の部屋だ。ふと、テーブルの上から紙切れがひらりと落ちてきた。燈は無意識にそれを拾って見る。
そこには綺麗な字で、『扉から燈の家に入れるようにしておいたよ。じゃあまた明日 ウィル』と書かれていた。
つまり、先程の資料室のようにウィルが魔法で家に入れるようにしたと。
「もう! 本当に何でもありなんだから!!」
紙を床に叩きつける。燈はスーツの上着を脱いで放り投げると、ベッドに思い切りダイブした。スプリングの軋む音が響く。いつもの自分の部屋に、燈は酷く安堵した。昨日干したばかりなので、陽の匂いがする。それを肺いっぱいに吸い込んだ。
ここにいると、先程までの出来事が夢のように思えてくる。長い夢でも見ていたのかと一瞬そう思う。しかし、耳に掛けられた虹色の花の感触が、夢ではない事を証明していた。
耳から外してまじまじと見つめる。色鮮やかな花弁だ。よく見ると全ての花弁の色が違っていた。起き上がって既に花が入っている花瓶に入れてやる。虹色の花はやけに目立っていた。
またベッドに舞い戻り、寝転がる。何でこんな事になったのだろう。昨日までは夢にも思わなかったのに。
ーー何だか眠い。寝転がっていたら激しい睡魔に襲われた。こんなとんでもない事になっているのに、眠くなるなんて。色々ありすぎて疲れたのかもしれない。半日くらいしか経っていないはずなのに、一日がやっと終わったくらいの疲労感を感じる。眠い。このまま寝てしまいたい。しかしお風呂には入らないと。
ぼんやりした頭をぷるぷると振り、起き上がると、おぼつかない足取りで風呂場へ向かう。湯を張る時間も惜しかったので、シャワーのみ浴びる事にする。温かい湯を顔面から浴びるが、それでも眠気は燈を襲う。
いきなり異世界に連れて来られて、どっと疲れが出たのかもしれない。
重い瞼を閉じぬよう意識を集中させ、髪と身体を洗い終えると、足をふらつかせながらも風呂場から出た。身体をバスタオルで拭いて、パジャマに着替える。ふと、洗面台の鏡に映る自分の姿が目に入る。
燈の瞼は今にもくっつきそうで、次第に自分の姿がぼやけ始めた。
「…ね、むい」
何故だろう。額が妙に温かく、その温度が身体全体を包み込むような感覚。その温度が、燈を夢の世界へと誘っているような……。歯磨きを終えた所で限界がきた。燈は髪を乾かすのも忘れて、吸い込まれるようにベッドの中に入る。
(駄目だ。今日は色々考えたりしなきゃ、いけない……のに)
意識と反して、瞼は瞳を覆う。額の温度が心地よい。燈の意識が途切れる直前。
『じゃあ燈、良い夢を……』
人差し指をこちらに向け、綺麗に微笑む灰色の魔法使いが脳裏に浮かんだ……
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