第9話
「春斗!!」
助けを求めようと振り返ったが、あったはずの扉はなくなっていた。教室があったはずの場所は真っ白で境界が分からない。そんな白の世界で明日香は顔の見えない女子高生と二人きりだ。
心臓が痛い。呼吸が荒くなる。
顔の見えない女子高生の掴む手が氷のように冷たい。明日香が逃れようと腕を大きく振ると、冷たい手は簡単に離れた。
顔の見えない女子高生はこちらを見たまま何も言わない。口元は微かに見えるが真一文字に結ばれている。
校庭で一瞬現れ、夢の中にも出て来たこの正体不明の女子高生。明日香と春斗しかいないこの世界で異質な存在だ。
「あな……貴女は一体誰なの? どうしてこんな事をするの……?」
緊張からか声が上擦ってしまった。
度々現れるこの女性は恐らく記憶の鍵を持っている。助けてくれると言った春斗はいないのだから自分が何とかしなければならない。
顔の見えない女子高生はしばらく黙っていたが、やがて両手を広げる素振りを見せた。
「貴女はこの消えた教室を見てどう思った?」
「え?」
「悲しいと思った? このままここにいたいと思った? 記憶なんて取り戻したくないって思った?」
「何を言っているの……?」
顔の見えない女子高生は問いに答えてくれず、逆に問い返してくる。脈略の無い問いに明日香は戸惑うはずだったのだが、何故か動揺していた。
心臓は早く鼓動を打ち、息が上がり、冷や汗が滲んでくる。春斗が教室を出ようとした時に感じた焦燥を今も感じている。
記憶を取り戻したい。その為に進んできたというのに、明日香はこの世界が崩壊する事を恐れている。春斗と二人でいるこのかけがえのない世界が――
頭が痛くなり、明日香は思わず頭を押さえる。その様子を見ていた顔の見えない女子高生は微笑んだように見えた。
「それが正解。貴女はここに居続けた方が良い。ここは貴女が望んで出来た場所だもの」
感情のこもっていない話し方をする顔の見えない女子高生だが、今回だけは安堵したような柔らかい口調になっていた。
この顔の見えない女子高生の声は聞き覚えがある気がした。文乃かと思ったが、彼女は確かもう少し低い声だった。文乃よりもよく聞いていた声――
考えを巡らせていると、顔の見えない女子高生の前に虹色の【追憶の宝石】がろうそくに灯った火のようにぼんやりと現れた。そして、その他に白色、緑色、赤色など――今まで見て来た【追憶の宝石】達だ。
「【追憶の宝石】……」
【追憶の宝石】達は顔の見えない女子高生の周りを静かに泳いでいる。顔の見えない女子高生に懐いているように見えた。だが、顔の見えない女子高生が手で振り払うような仕草を見せると、【追憶の宝石】達は煙のように消え失せた。
「こんなもの探さなくて良いの。ここなら貴女の望む事しか起こらない。悲しい思いなんてしなくて良いの」
「何を……言っているの」
【追憶の宝石】を探さなければ、記憶が戻らない。元の世界に帰れない。だというのに、顔の見えない女子高生の言葉は甘い誘惑のように明日香の脳内に浸食していく。
頭が割れるように痛い。息が苦しい。言い返したいのに、喉が震えて言葉にならない。自分の思いとは裏腹に涙が零れ落ちた。この涙は一体どういう意味なのか、今の明日香にはまだ分からない。
顔の見えない女子高生は苦しむ明日香に近付くとそっと抱き締めた。突然の抱擁に明日香は身体をびくりと震わせたが、拒絶はしなかった。冷たい印象だったはずの顔の見えない女子高生の抱擁は温かく、思わず目を瞑りそうになって手を背中に回そうとしてしまう。
――明日香。
春斗の声が脳裏を過り、明日香はハッとする。このまま顔の見えない女子高生の言いなりにはなれない。何故なら、自分が記憶を取り戻さないと春斗も元の世界へ帰れないのだ。
元の世界へ――
(……そういえば、何で春斗はここにいるのだろう)
ここが明日香の為の世界だというのならば、春斗は何故巻き込まれているのだろうか。明日香にとって一番近しい存在だからなのか――
「ここは貴女の望んだ世界。それなのに何で春斗が紛れ込んでいるのかしらね? お父さんもお母さんも文乃もいないのに、春斗だけが存在している」
まるで明日香の心の声を読み取ったかのように、顔の見えない女子高生が言葉を紡ぐ。その声は何故か悲しそうに聞こえた。
心を読まれた、と明日香は顔の見えない女子高生に感じていた安堵感は恐怖心によって消え去った。
何故この得体の知れない人に心を許しかけたのかと明日香は離れようともがく。顔の見えない女子高生は細腕とは思えない力を持っているので無駄な足搔きだと思ったが、彼女の身体はあっさりと離れた。
顔の見えない女子高生と数十センチの近距離で向かい合う。
「貴女はもうすぐ全ての記憶を取り戻すわ。そして貴女はここに留まる事を決意する」
「そんなわけない……! 私は元の世界に戻りたいもの!」
黒いもやで顔がはっきりと見えない彼女だったが――そのもやが少しずつ晴れていく。ぼやけていた輪郭がはっきりとしてくる。
奥二重の目、眉下で切り揃えられた前髪。背中まである黒髪。見覚えのある顔に明日香は驚愕する。
毎日見ていた顔だ。鏡でしか見る事の出来ない顔を目の当たりにし、明日香は言葉を失ってしまう。
「分かるわ。だって私は――貴女だもの」
顔の見えない女子高生の顔は――明日香と瓜二つだった。自分の声を客観的に聞いた事がほとんどなかったから声色が全く一緒だった事も気が付かなかった。
顔の見えない女子高生――明日香は本人の前で悲しそうに笑う。
「どうしてここに留まりたいって思うか教えてあげるわ。貴女は――」
明日香の顔をした彼女が紡いだ言葉を最後まで聞き――明日香は静かに涙を流した。
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