第10話
「――明日香? どうかしたか?」
春斗にそう尋ねられて明日香は我に返った。春斗は自分の席に座ったまま心配そうにこちらを見つめていた。
「あれ? 私――」
確か教室を出たはずでは、と少し混乱する。確かこの教室を出て、その後――記憶が酷く曖昧だ。春斗と離れ離れになってしまった気がしたが、彼は変わらぬ笑顔を見せてくれている。
「何か突然ぼうっとしていたぞ。疲れちゃったか?」
「ううん、そんな事ないよ」
春斗に会いたくて仕方がなかった気がするのだが、本人は普通にここにいる。
白昼夢でも見ていたのか。――とはいっても今のこの世界が白昼夢のような気がするが。
そういえば教室を漂っていた【追憶の宝石】は何処に行ったのだろうと辺りを見回してみたが、その姿は見つからなかった。
「どうした?」
「ここにいた【追憶の宝石】がいなくなっているの。そんな事なかったのに……」
――こんなもの、探さなくて良いの。
誰かの声が脳裏を過った。聞き覚えのある声に明日香はハッとなったが、記憶が曖昧でいつ言われたか思い出せない。記憶を失ってから頭にもやがかかっているような感覚があったが、今までに感じた事のない突っかかりがあった。
「そうなのか? もしかしたらここで待っていたら戻ってくるかもしれないからここにいるか」
春斗はそれ程気にした様子もなくそう言った。
何となく違和感。春斗は【追憶の宝石】を辿って記憶を探す事に積極的だった。それなのに自分から探しに行かないのは彼らしくないと思った。
「春斗……?」
「明日香、話をしよう。そうすれば記憶を取り戻す手がかりになるかもしれない」
春斗は視線を外の景色へと向けた。窓からは明日香が倒れていた中庭が見える。少しだけ嫌な思い出のある場所だが、明日香は自分の席から立って恐る恐る窓へ近づき春斗と同じように外の景色へ目を向ける。
青々とした木々が生い茂っていた場所だったはずだが、今は桜の花びらが満開に咲いている。ふわりと桜の花びらが風に舞って飛んでいる様を見て、明日香は思わず感嘆の声を上げてしまう。
「綺麗……!」
「なあ、明日香。俺の名前、季節の春が入っているんだ」
桜の鮮やかな景色に目を奪われていると、隣で見ていた春斗が不意にそう言った。明日香は思い出していたから春斗の漢字も知っていたが、念の為に教えてくれたのかもしれない。
ふと脳裏に春斗と共に桜の並木道を歩く記憶が蘇った。二人で話していたら強い風が吹き、二人の頭にたくさん花びらがついてしまったのを笑い合いながらお互い取った気がする。
「春斗が桜の中にいる光景が浮かんだ。春斗は春が似合うね」
「まあ名前に春がついているからな!」
春斗ははにかみながらそう言って、春生まれだから春斗と名付けてもらったんだ、と付け足した。
「体育祭覚えているか? 俺がアンカーを走ったんだけど」
「あ、なんか思い出した。春斗が最後で見事にすっ転んで最下位になっちゃったんだよね」
「嫌な事は覚えているな!」
足の速い春斗はエースとしてリレーのアンカーを任された。クラスメイト達の期待通りの速さを見せてくれたが、ゴール直前でほどけた靴紐に足をすくわれて転んでしまったのだ。
クラスメイト達は残念がったが、それでも奮闘してくれた春斗には感謝をしていた。春斗はクラスメイト達から好かれる存在だった。
「俺、無理してここに入ったから勉強がなかなかついていけなくて、明日香によく勉強を教えてもらったなあ」
「数学苦手だったよね」
「お! 結構思い出してきたな! じゃあ、あれはどうだ? 初めての文化祭! お化け屋敷をやったんだが、お化けに扮した文乃にビビッて大声上げていたよな」
「そ、そんな事ないよ! あれは文乃が驚かしてきたから……!」
意外と怖がりな明日香は、白いシーツを被っただけの文乃に後ろから驚かせられて変な声を出してしまった事があった。それを見た春斗と文乃には腹を抱えて笑われてしまった。
当時の事を思い出し、明日香はムッとした表情になったが、楽しそうに話す春斗を見ていたらどうでも良くなってしまった。
取り留めのない話をしていると、目の前を【追憶の宝石】が横切った。いなくなっていたと思ったら戻って来た。一瞬そう思ったが、先程までいた【追憶の宝石】とは別だ。
少し前までいた【追憶の宝石】は空色だった。しかし、目の前を横切ったのは――漆黒。
不思議な魚くらいにしか思っていなかったが、その黒は酷く不安を煽った。その【追憶の宝石】が持つ記憶は嫌なもののような気がした。
「あ、春斗……」
話の途中だったが、黒い【追憶の宝石】が来たと伝えなければと声を掛けたが――儚げに笑う彼と目が合った。
ドクン、と心臓が重く跳ねる。目の前の景色は桜色で覆われていたというのに、いつの間にか枯れ木になっていた。
風景が変わったというのに、春斗は特に驚いた様子はなかった。ただ、哀しそうに笑っている。
これ以上春斗の話を聞いてはいけない。脳の奥で警鐘が鳴るような感覚。だが、明日香は何も出来ずに呆然と彼の顔を見つめていた。
静寂の中、春斗の唇が動く。
「それでやっと、俺達は高校二年生になった」
黒い【追憶の宝石】が大きく跳ねた。それと同時に空間が水面のように揺れるような感覚があった。
脳裏で砂嵐が起きているような映像が蘇ってくる。
桜道。
二人で歩くいつもの道。
横断歩道の先にいた文乃を見て、明日香は走り出す。
横断歩道は青だったのに、車が――
全身が震えた。その先の映像が、明日香を絶望へと叩き落した。
平穏だった日々。しかし、あの時明日香達の日常は崩れ去った。
「なって、ない。春斗……私達高校二年生になっていないよ。だってまだ春休みだったもん。春斗と出かけたあの日、私は横断歩道の先にいる文乃に気が付いて走ったんだよ。そうしたら」
激しいクラクションの音。明日香は思わず立ち止まってしまった。
「信号無視の車が……突っ込んで来て」
その時、背後から自分の名前を呼ぶ声と共に強く突き飛ばされた直後、辺りは轟音に包まれた。
「春斗が私を突き飛ばして……私は助かったけれど、ハル君は……」
涙が溢れた。
春斗は高校二年生になる前の春休みに、明日香を庇って事故に遭った。――即死だった。突然の別れだった。
目の前にいる春斗は悲しそうに微笑んだ。
「そこまで思い出したんだな」
全て、思い出した。
明日香は春斗の突然の死に耐えきれず塞ぎ込んでしまった。自分のせいだと責め続けた。暗い部屋でどうしたら春斗にずっと会えるかを考えていた。高校二年生になってから、明日香は一度も登校していない。
春斗は明日香にとってかけがえのない人だったから。彼がいなくなった事により明日香の日々はモノクロに染まった。
――だから、私はあの時――
「わ、私……ハル君の所へ行きたくて仕方がなかった……」
涙が止まらない。春斗の姿はぼやけて見えなくなってしまう。もう会えないと思っていた人にようやく会えたというのに。もっとたくさん話したかったのに。
ここは明日香の望む世界だから現れてくれたのか。それともこの世界は――死後の世界なのか。
「ハル君……ハル君がいるって事は……私は同じ所へ来られたって事?」
明日香は泣きながら笑顔を見せる。会いたくて仕方が無かった。この世界がどんなものだろうとどうでも良い。春斗に会わせてくれたのだから明日香にとって幸福な場所だ。
春斗に触れようと手を伸ばしたが、彼は表情を曇らせて首を振った。
「俺はお前を元の場所へ帰す為にここへ来た。ここはお前のいる場所じゃない」
春斗から出て来た言葉に、明日香は目を見開いた。春斗も喜んでくれると思っていたのに彼は元の世界に戻る事を望んでいる。――そうしたら二度と会えないというのに。
「な、何でそんな事言うの? ここにいたら私はハル君とずっと一緒にいられるんでしょ? ハル君は私と一緒にいたくないの?」
「違うよ明日香。俺は――」
「嫌!! 聞きたくない!! 私はずっとここにいる!!」
「明日香!!」
ずっといたいのに、いられるのに、春斗は元の世界へと帰そうとする。それが拒絶されたような気持ちになり、いたたまれなくなった明日香は春斗の声を遮ると、教室から飛び出した。
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