第8話

少しの間教室で春斗と他愛ない会話をした。穏やかな時間が流れている。まるで高校一年生に戻ったかのようだ。春斗とこうして話を続けていたいが、明日香と春斗は現実世界に戻らなければいけない。

 明日香は春斗越しから窓の景色を見つめる。校門の先には見慣れた街並みが広がっている。


「ねえ、春斗。学校の外は行けないの?」


 そう尋ねると春斗は残念そうに首を振った。


「多分行けない。俺は出られなかった。校門の先に壁があるような感じ」


 両手を前に突き出して壁を抑えるような動作をする。春斗は明日香を見つける前にこの学校中を探索していたのだが、外へ出ようとしたら見えない壁に激突してしまったという。


「そっか。外に出られたらもっと記憶を辿る手がかりがあるかなあって思ったんだけれど、この世界は学校くらいの大きさしかないんだ」


 春斗が家に帰らそうとしなかったのも、明日香が帰れないと不安に駆られないようにしてくれたのかもしれない。

 それにしてもこの世界は学校の敷地くらいの大きさしかないとは。何だか窮屈に思えてしまう。

 自分達が行った場所も消えているというのに――


「あ、そうだ。私達が行った場所無くなっているみたいなの。図書室の窓が無くなっていたから……」

「そうなのか。明日香が記憶を取り戻したら必要ないからって消えるのかな。という事は明日香が完全に思い出したらここは消えて元の世界に戻れるって事か」


 この学校は明日香が記憶を取り戻す度に崩壊をしている。そう考えると少しだけ恐怖を抱いた。完全に記憶を取り戻した時、本当に元の世界に戻れるのだろうか。この世界と一緒に消えてしまうのではないか――

 そこまで考えて明日香は嫌な考えを振り払おうと首を振った。そんな事を不安に思っていたら先へ進めない。とにかく記憶を取り戻す事に専念しなければ。

 そう決心すると、ふと不思議そうに笑う春斗と目が合った。その表情はあまり見ないものだったので思わずドキリとしてしまう。


「……そういえばさ、明日香ってこの摩訶不思議な世界にいてもあんまり驚かないよな。何で?」

「何でだろう。春斗がいるからかな」

「そうなのか?」

「うん、多分一人だったらパニックになっていたかも」

「明日香がパニックになっている姿なんて想像がつかないな」


 春斗は冗談のように思ったようだが本心からの言葉だった。こんな魚が浮かぶ学校で一人だったら恐怖で泣き叫んでしまっただろう。春斗の存在が心強かった。


「じゃあ、ここから出たらこの教室は消えるのかな」

「え?」

「図書室が消えたんだろう。じゃあ、この教室も出たら窓が無くなるのかも。試しに出て行ってみるか?」


 春斗が立ち上がり、動き出そうとする。その瞬間――



「駄目!!」



 明日香は思わず春斗の腕を掴んでいた。

 春斗は驚いた表情で明日香を振り返る。明日香本人も何故春斗を引き留めたのか分からなかった。


「どうした? 明日香」

「あ、あれ? 私何で駄目って言ったんだろう」


 自分でも分からない。それでも春斗を引き留めなければと思ったのだ。春斗は身体を屈めるとまだ座ったままの明日香に視線を合わせる。


「具合悪くなったか? もう少しここで休むか? お前、ピンピンしているけど四階から落ちたんだもんなあ……」

「う、ううん。大丈夫……」


 そう、大丈夫なはずだと自分に言い聞かせる。前へ進むにはここから出なくてはいけない。先程記憶を取り戻すと心に誓ったばかりだというのに。

 脳の奥で誰かが必死で止めているような感覚を覚え、目眩がしたが明日香は再度首を振った。

 自分がまごまごしていたら春斗と共に元の世界へ帰れない。重たい足に鞭打ち明日香は立ち上がった。


「行こう春斗。一緒に元の世界へ帰らないと」

「明日香……?」


 まだ心配そうな春斗の腕を掴み、教室を出る。扉が閉まる直前、空色の【追憶の宝石】が水面を跳ねるような動作をした。

 そして扉が音を立てて閉まると――教室はまるで何もなかったかのように消え去った。扉の窓から見える景色は真っ白の空間になっている。春斗や明日香のいた窓際の席もない。

 何故か涙が溢れた。記憶を取り戻してきているというのに、今まで過ごした場所を失った喪失感。思い出す事は嬉しいはずなのに、どうして胸が苦しくなるのだろうか。


「明日香、どうした?」


 背後から春斗が心配そうに声をかけてくれる。彼は小さい時から明日香の事を気に掛ける心優しい人だった。その優しさに、思わず涙が一筋零れる。だが、心配をかけまいと涙を袖で拭って「心配ないよ」と笑顔を見せて振り返る。これ以上春斗に心配をかけたくなかったから。


「本当に教室消えちゃったね。扉だけ残って変な感じ」

「……え?」


 春斗は怪訝な表情を見せた。



「俺の目には……扉も消えたように見えるんだけど」

「……え?」


 今度は明日香が怪訝な表情を見せる番だった。

 しかし、明日香の目には扉がはっきりと見えている。もう一度確かめようと前を向いた時だった。


 誰もいなかったはずの扉が突然開いた。明日香は思わず肩をびくりと跳ね上げてしまう。そして目の前に立っていた人物に、恐怖からか喉の奥から小さな悲鳴が漏れた。


「――っ!?」


 校庭にいた、夢の中で見たあの顔の見えない女子高生が立っていた。こんなに近い距離にいても彼女の顔は黒いもやがかかっているかのように見えない。

 顔の見えない女子高生は白い空間の中一人で立っている。


「春斗……!!」


 思わず背後の春斗へ助けを求めようとしたが、少しだけ遅かった。

 顔の見えない女子高生は明日香の腕を掴むと、女とは思えぬ力で引っ張った。明日香は抗う事も出来ずに何もなくなった空間へと入ってしまった。



「明日香!? 一体何――」



 背後で春斗の切羽詰まった声が聞こえたが、扉の閉まる音で彼の声はかき消えてしまった。

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