第6話
「明日香!! 明日香!!」
自分の名前を呼ばれている。明日香は薄らと目を醒ました。
「あれ……春斗……?」
視界いっぱいに春斗の顔が映る。ぼんやりとした頭で春斗の顔を見上げていると、春斗はホッとした表情を浮かべた。
「良かった……。俺、もうお前が目覚めなくなるんじゃないかって……」
そのまま強く抱き締められる。突然の事にぼんやりとしていた頭は覚醒し、明日香は顔を赤らめてしまう。だが、春斗が僅かに震えているのを感じ、その紅潮はすぐに消えた。
春斗はテニスコートの方へ行き、自分の見かけた影を探したのだが見つからなかったらしい。そして校庭に戻ってみれば明日香の姿がない。慌てて探し、見つけたと思ったら最初の時のように中庭に仰向けで倒れていて相当肝を冷やしたという。
「心配かけてごめんね、春斗……」
春斗が本気で心配してくれていた事が痛い程伝わり、明日香は春斗の背中にそっと手を回した。とても温かい。その体温に気持ちが落ち着いていくのが分かった。
どれくらいそうしていただろう。春斗がそっと身体を離すと、彼の顔は真っ赤になっていた。
「あ……突然抱き締めたりしてごめん」
「べ、別に大丈夫だよ!」
冷静になって自分のしてしまった事に赤面してしまったようだ。倒れていた明日香に抱き着いた姿はまるで押し倒したような形になってしまっていた。春斗はつい勢いで抱き着いてしまったのは分かるが、明日香の胸は大きく脈打っていた。この胸の高鳴りは今の明日香のものなのか、それとも――
起きた時は頭がうまく回らなかったが、自分がどうしてここへ来たか少しずつ思い出してきた。
明日香は虹色の【追憶の宝石】に誘われて中庭へ来た。そこで【追憶の宝石】から発生した泡により意識が飛び、呼吸が出来る奇妙な水の中で目を醒ました。
あの水の中の事は夢だったのかもしれない。しかし、何ともリアルな夢だった。顔の見えない女子高生に腕を掴まれた感触も覚えている。
「なあ明日香。どうして中庭にいたんだ?」
心が落ち着いてきたのか、頬の赤みが和らいできた春斗がそう尋ねる。
その問いに答えるには、虹色の【追憶の宝石】の事や女子高生の姿をした顔の見えない人について話さなければならない。
一時期は春斗の事を疑っていた。だが、夢で見た春斗の逞しい手、心地よい体温を思い出したらそんな疑いも薄れていた。――むしろ、警戒すべきは顔の見えない女子高生の方かもしれない。あの夢は春斗に疑心を持った明日香への警告だったのかもしれない。
「実は……」
明日香は素直に話す事にした。図書室で見た顔の見えない女子高生、虹色の【追憶の宝石】。そして水の中の夢の話を。
春斗は真剣な表情で聞いてくれた。全てを聞き終え、春斗は表情を強張らせた。
「夢に出て来た顔の見えない女子高生、か。一体何者なんだろう。ここには俺と明日香の二人しかいないと思っていたけれど……」
「……ねえ、春斗。ここは私達のいた世界じゃないよね? いくら何でも人がいなさすぎるし、【追憶の宝石】っていう現実ではあり得ない魚が存在しているなんておかしいよ」
それを聞いた春斗は少しだけ憂いを帯びた表情を見せた。
「……そうだな。記憶を失っていたから混乱させない為に余計な事を言わないでいたけれど……明日香も違和感に気付いてくれたか」
春斗は記憶喪失の明日香を混乱させないようにこの世界の違和感に言及しなかったようだ。それが明日香の疑心を膨らませてしまったのだが、春斗なりの気遣いだったからあまり追及はしないでおく。
この不思議な世界にいるというのに狼狽えずに明日香の心を優先してくれた春斗はやはり心の優しい人だ。
「春斗もこの世界の事知らなかったのに、私に心配かけない為に平静を装ってくれていたんだね。春斗は優しいね」
「……そんな事ないよ。お前が俺を疑ったのも分かる。だって俺はまだお前に話せない事があるから――」
そう言われても明日香の心に再度疑いが過る事はなかった。春斗は明らかにまだ話していない事がある。何を隠しているかは今の明日香には分からなかったが、心の何処かでそう確信していた。明日香の脳の奥に隠された記憶の中にその真実があるのだろう。
隠し事がある、と言えば更に疑心を煽る事になるというのに春斗は正直にそう伝えてくれた。春斗は嘘を隠すのが下手だった事を思い出し、思わず声を上げて笑った。
「いいよ。今は話せないだけでしょう? 相変わらず春斗は嘘を隠すの下手だなあ」
「ごめん。ありがとう明日香」
春斗は申し訳なさそうに眉を下げたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。表情がコロコロ変わるのは彼らしい。
春斗と過ごしてきて、少しずつ彼の記憶が蘇ってきている。それと同時に胸が締め付けられるかのような感覚があり、鼓動が早くなっていくような気がする。
明日香は春斗が好きなのだ。少しドジなところはあるが、人の気持ちを最優先に出来る優しいこの男が。
記憶を失っているからか、自分の気持ちを客観的に捉える事が出来た。
春斗との思い出を全て思い出したい。最初はあまり自覚が無く春斗について行って成り行きで記憶を探していた。だが今は記憶を取り戻す事に前向きになっていた。
「多分この世界は明日香の為にあるんだ。【追憶の宝石】の中に明日香の記憶が隠されていて、全てを揃えればこの世界は消えて、元の世界に戻れると思う」
「じゃあ空を飛んでいる【追憶の宝石】を全部捕まえれば良いんだ。網とかあるかな」
「網で捕まえるというより、【追憶の宝石】の側に行けば思い出してくるよ。今まで通って来た所の記憶は少しずつ蘇っているだろう?」
そういえば、と明日香は頷く。保健室、図書室、家庭科室には【追憶の宝石】がいて、そこで過ごしていたら少しずつ記憶を取り戻した。
「――あ。ここが私の為にあるから、用が済んだ図書室は無くなったって事……?」
校舎を外から見たら消えていた図書室の窓。ここが現実世界だと思っていた時は恐怖を抱いたが、ここが明日香の為にある世界だというなら、もう用の無い場所は消えてしまった、という事なのかもしれない。
明日香が記憶を取り戻す毎にこの世界は少しずつ消えていく。
「きっとそうだ。この世界を出て両親や文乃に会う為に頑張ろうな、明日香」
「うん」
今まで成り行きで記憶を探していたが、ようやく自分の意志で探したいと思えるようになった。
明日香は春斗と話し合い、次の記憶がありそうな場所へと向かった。
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