第20話
それから何事もなく平穏な日々が続いた。暗殺者に襲撃される事も無く、いつも通りの生活が続く。
アリソンも勉学や鍛錬、時には父の仕事を手伝ったりと忙しそうだったが、リィとの勉強会は定期的に行っていた。最初は国の情勢や歴史について教えているだけのものだったが、リィの要望もあり、食事のマナーを教えたりしているそうだ。リィは魔物の森で暮らしていたので、フォークやスプーンの使い方をいまいち分かっていなかったのだ。
そしてアメリーはというと――只今自分の部屋から脱走をしようと窓枠に足を掛けている所だ。リィが来てからは城から脱走せず大人しくしていたアメリーだが、数日前に届いた知らせを聞いた途端、この日に脱走しようと企てていたのだ。
幸い、いつもアメリーを連れ戻すグランデルは城内にはいない。カーテンを繋ぎ合わせてロープのようにし、それを伝って近くの木の枝に降り立つ。アメリーの久し振りの脱走計画が今に遂行されようとしていたのだが――突然、上から大きな物体が落ちてきて、アメリーの目の前に現れた。その拍子でアメリーが乗っていた枝が大きく揺れ、思わず小さく声を上げてしまう。
「わ! り、リィ!」
上から落ちて来た物体の正体は、リィだった。どうやらアメリーを上の階から見張っていたようだ。リィが落ちて来た衝撃で枝が大きく揺れた為アメリーのバランスが崩れてしまう。身体がそのまま地へ落ちてしまおうとした直前に、リィが素早く腕を引き寄せて事無きを得る。一瞬肝が冷えたアメリーだったが、リィの胸の中でホッと安堵の息を漏らした。
「あ、ありがとうリィ」
「アメ。今日は会食とやらがあるからここから出てはいけない」
素直に礼を言ったアメリーだが、リィの言葉によって自分の本来の目的を思い出し、慌てて彼から離れた。
「その会食が嫌だから逃げ出そうっていうの! せっかく無くなったと思っていたのに、何でまたカリバン王国の王子と会食しなくちゃいけないの!」
以前、カリバン王国の王子の体調不良の為に無くなっていた会食だが、何と今日に変更になったのだ。その話を聞いてから、アメリーはこの日には絶対に城を脱出せねばと狙っていた。だが、護衛役のリィによってそれは阻まれてしまった。大方、アリソンに姉を脱走させないようにとお願いをされたのだろう。
会食を嫌がるアメリーに、リィは眠そうな表情のまま首を傾げた。
「ご飯を食べるのが嫌なのか?」
「王子と会いたくないの!」
「でも、センカも来ると聞いた」
「え、センカも? ……で、でもあの王子に会うのはちょっと……」
カリバン王国はグルト王国とは違い、側室がある。それなので、子は六人いると聞いた事がある。しかし、アメリーが会った事があるのは、第一王子のナツメと第二王子のオトギと第一王女のセンカのみだ。カリバンの王族は昔から病弱にあり、子を多く生しても半数以上は幼少期に病気によって死んでしまう。会った事の無い子達は、病魔に侵され死に至ってしまったと知らせがあった。
第一王子のナツメと第一王女のセンカはとても優しく穏やかな人達なのだが、第二王子のオトギは他の者を下に見ているような鼻につく所があるのでどうも苦手なのだ。
このままではリィに外出を阻止されてしまう。そう思ったアメリーは少し考えてから、ある提案を彼に持ち掛けた。
「ねえ、リィ。私と一緒に城下町へ行こうよ」
これはアメリーの考えたミイラ取りをミイラにしてしまえ戦法である。リィさえ懐柔してしまえば、アメリーは城下町へ行ける。そんな企みがある事も知らず、リィはアリソンの言いつけを守ろうと首を振る。
「……でも、アメを外に出してはいけないと言われている」
「外って門の外の事でしょ! 城下町は外じゃないし、行っても大丈夫だよ!」
「……そうなの?」
「そうそう! 私、リィに城下町を見せたいと思っていたんだよ! いい機会だし、一緒に行こうよ!」
「……でも、俺がここを出るとアリーの護衛が出来なくなる」
「大丈夫! 今日はマイクルや弓兵隊長のイムと一緒のはずだから」
そう言われリィは長い事考えていたが、やがてこくりと頷いた。彼は単純なので、人を説き伏せる事が出来たのはこれが初めてなのではないか、と内心大喜びのアメリーはとびっきりの笑顔を見せるとリィの手を握った。
「じゃあ、行こうか。城下町!」
「えー、いいなあ城下町。俺も行きたーい」
早速行こうとリィとアメリーが慣れた様子で木から降りると、頭上からケラケラと笑う男の声がした。見上げてみれば、そこには笑みを浮かべてこちらに向かってふよふよと降りてくるエダの姿が。
「あ、エダも行く?」
「んーふふ。俺はいいよ。お邪魔虫になりそうだし、若いお二人さんで行ってよ!」
エダは変な含み笑いをしながらそう言う。この城へ来てから、エダはアメリーとリィを二人にさせようとしたがる。その意図を二人が理解出来ない二人はエダの不思議な行動にいつも首を傾げていた。
「エダはオジャマムシという虫になるのか」
「あっはははは! そうそう! だから二人で行って来てよ! 俺は一人大人しくしているからさ!」
お邪魔虫という言葉の意味が分からず真剣に聞くリィに、エダは腹を抱えて笑う。エダはリィと一緒にいるととても楽しそうである。魔物の森から出て来たのも、もしかしたら本当に彼と会う為だけだったのかもしれない。
エダに行って来ますと告げリィと共に城下町へ行こうとした時、ふと思い出してアメリーは空飛ぶ彼を振り返った。
「あ、エダ。今日はカリバン王国の王子と王女が来るからあまりブラブラしない方が良いよ。二人も魔力を持っているから、エダの姿が見えるだろうし」
アメリーは何の気なしに伝えたつもりだった。しかし、その瞬間――エダの笑顔が突然消えた。
「……カリバン王国?」
「どうかした?」
エダは長い袖によって隠れた手を顎に添えて考える素振りを見せたが、二人の視線に気が付き、すぐに笑顔を取り繕った。
「あ、何でもない。分かった! 大人しく空でも漂っていますよーっと!」
そう言うと、エダは逃げるように空高く飛んで行ってしまった。エダの様子は気になるものがあったが、逃げられてしまっては聞く事も出来ない。アメリーとリィはとりあえず城下町へ向かう事にした。
***
グルト王国の城下町は、緑を基調とした建物が多い。城が緑色である事から、この国では重宝されている色である。大きな道を挟み、食料品や嗜好品を売る店が立ち並んでいる。
そんな中、アメリーはリィの手を握って前を歩いていた。正体を隠さずに堂々と城下町を歩くのは見慣れたものだが、男を連れているのは初めてなので、国民達は思わず二人の様子を見つめてしまう。リィの服装は魔物の森にいた時とほぼ同じ恰好になっていた。先日グランデルがググ村へ行った時に服を調達してくれたらしい。
「アメルシア王女、久し振りに来たと思ったら男同伴とはやりますねえ。今日は彼氏とデートですかい?」
そんな気になっても聞けない事を、リィに果物の名前を説明しているアメリーに果物屋の男店主が直球で尋ねる。アメリーはきょとんとしてから声を上げて笑った。
「何言っているのおじさん! この人は私の護衛係なんだよ!」
予想外の返答に面食らった男店主を残し、アメリーはリィに次へ行こうと促して先へ進む。リィは大勢の人々が行き交う様を見るのが珍しいようで、キョロキョロと辺りを見回している。奇異の視線を受けている事に、彼は特段気にしていないように見える。アメリーも慣れているので、鼻歌混じりに堂々と大通りを歩く。
「ねえ、私の行きつけのお店があるの! そこに行こう」
「うん」
アメリーに抵抗する事も無く、リィは素直に従う。彼も街並みを眺める事を楽しんでいるように見える。相変わらず眠そうな目は変わらないが、光が灯っているような気がした。
いつも行く酒場に入ると、恰幅のいい女店主が出迎えてくれたが、リィの姿を見て目を丸くさせた。
「あらあ。その布の染色はググ村の人よね? 珍しいわあ。遠いのに、よく来たわね」
「……うん」
リィはググ村出身だという事にしている。魔物の森に住んでいたと言っても誰も信じないだろうし、変な不信感を抱かせてしまうからだ。幸いググ村出身のオウルがいたので、口裏を合わせてもらっている。
「おばさん、いつものね! 今日は二つ!」
アメリーはいつも座る一番手前の席に腰掛け、リィに隣に来るよう手招きする。彼はこくりと頷いて隣に座った。
少しして女店主は二人の前に桃色のジュースの入ったグラスを置いてくれた。礼を言ってから飲んでみれば、仄かな甘みが口内に広がった。リィはグラスに注がれた液体を凝視していたが、隣のアメリーが飲んでいるのを確認してから見よう見まねでグラスに口を付ける。一口飲んでから、リィの眠そうな目が驚いたように見開かれる。
「……うまい」
「でしょ? ここのジュース本当に美味しいんだから!」
「果実を液体にして飲むなんて考えた事も無かった」
リィは二度頷いてから再度グラスに口を付けて飲む。こちらへ来てから見た事の無い食物を食べ、あまりの旨さに感動する事が多いリィ。彼にとって食とは生きる為だけのものだったので、楽しむ事を知らなかった。
「……うまいな、アメ」
それなので、食物を口にすると素直に美味しいと言う。そして、いつも眠そうな瞳が嬉しそうに細められるのだ。その表情がアメリーはとても好きで、ついつい色々な物を食べさせたくなってしまう。
女店主と少し談笑してから、二人は酒場を後にした。
「ねえ、リィ。城下町って楽しいでしょ? 私のお気に入りなんだよ」
「ああ、楽しい」
表情の乏しいリィだが、いつもより楽しそうに見える。最初はアメリーに手を引かれて風景を見ているだけだったが、いつの間にか彼の方が前を歩き、気になる物があれば「あれは何だ」としきりに尋ねる。アメリーは嫌がりもせず、全ての問いに返答をした。
リィの指が「あの店は何を売っている?」と一つの店を差した時、アメリーはいい事を思いつき、「寄ってみようよ」と彼の手を引っ張った。リィが指差したのは、アメリーがよく行く装飾品店だった。出店のようになっており、綺麗な石で作られたブレスレットやネックレスが並んでいる。気の良さそうな中年の男店主が笑顔で「いらっしゃい」と出迎えてくれた。
アメリーは並べられた装飾品を吟味していると、一つのネックレスを手に取った。革紐に瞳くらいの大きさのエメラルドグリーンの石がくくりつけられている。アメリーの胸元に光るブローチと同じ石だ。
「リィにこれ買ってあげる。この石は翠玉石と言って魔石ではないんだけど、グルト王国で魔除けだと伝えられているんだよ」
そう言いながら、男店主に金額を支払ってリィの首に掛けてあげる。リィは首元の翠玉石をまじまじと見つめてから、アメリーに視線を戻す。そして――
「ありがとう、アメ」
リィが目を細めて微笑んだ。会ってから初めて見せた笑顔。笑い慣れていないのか少しだけぎこちないものだったが、それを見たアメリーの胸が高鳴った。その理由に気が付かない王女は、リィが初めて笑ってくれて嬉しいからだと一人で勝手に納得した。
もっとその笑顔が見たい。そう思ったアメリーはリィを別の場所へ連れて行こうと手を引っ張ろうとした時だった。
「あー。やっと見つけましたよー。アメルシア王女―」
背後から気だるい男の声が聞こえて、アメリーの頬が引きつった。恐る恐る後ろを振り返ってみれば、見知った男の姿が。
「イム……!」
弓兵隊長のイムだ。切り揃えられた濃緑色の髪をベージュのヘアバンドで纏めている。その上には望遠レンズが付いたゴーグルが掛けられている。緑青色の鎧に身を包んでいるが、グランデルよりは軽装である。彼は垂れ目がちの蒼色の瞳で王女とリィの姿を見て、面倒くさそうに溜め息を吐いた。
「もー、俺はグランデル騎士隊長と違って貴方を探す事に特化していないので脱走しないでくださいよー。全く、リィもどうして一緒になって楽しんでいるかなー。お前の役目はアメルシア王女を城から出さない事だろうー?」
「……でも、門の外には出ていない」
「馬鹿だなー。城の外に出すなって事だよ。まー、アメルシア王女に言いくるめられたんだと思うけど、今度から気をつけろよなー」
二十代半ばで弓兵を従えるイムの実力は確かであり、グランデルの指導を受けていた男なのだが、怠惰という言葉が似合う男だ。本当にあの真面目なグランデルから指南されていたのかとアメリーはたまに疑問に思う。
城にいる最中、リィはイムと何度か会った事があるので面識はあった。しかし、弓の練習にイムはほとんど参加していないので、鍛錬場で会う事は無かったようだ。
「アメルシア王女―。観念してくださいねー。俺とリィがいたら、流石に逃げる気持ちも失せると思いますけどー。嫌だとは思いますが、オトギ王子とセンカ王女との会食に参加してくださーい。お二人とも既に到着されていますよー」
「アメ、城下町は楽しんだし戻ろう」
「ううっ」
リィとイムの前ではどう抗っても逃げられようにない。諦めたアメリーは盛大な溜め息を吐いて渋々頷いたのだった。
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