第17話
「――大丈夫よ。リィ、大丈夫」
遠くで声が聞こえる。それは今にも途切れてしまいそうなくらいに微かで、震えている。泣いているのだろうか。身体に感じる温もり。それが懐かしく、心地よい。女性の息が弾む音と、身体が揺さぶられている感覚。リィは閉じられた瞼を開く事が出来ず、ただ身に感じる微かな衝撃と泣きそうな声を黙って聞いている。
「ここに来ればもう大丈夫よ。ここには――×××がいるから」
女性の声に僅かに雑音が入り、聞き取れない。彼女の声は震えていたままだが、何処か安堵しているようにも聞こえた。さわさわと木の葉が揺れる音が聞こえる。今まで固く閉じられていたリィの瞼だったが、不思議と開く事が出来た。何故か焦点が合わず、視界がぼやけている。その時――上の方で女性の恐怖にひきつった声が聞こえた。
「そ、そんな――だってここにはもう魔物はいないって――」
獣の唸り声が聞こえる。視界に、黒い物が入り込んだような気がした。ぼやけた視界に入り込んで来たもの、それは――黒い獣の牙がこちらへ向かって――
右の視界が、赤く染まった。
***
「――っ‼」
リィは目を見開いて起き上がった。しかし、目の前に広がるのは魔物の姿ではなく、清潔感のある白を基調とした部屋だ。そして部屋中に感じるアルコールの臭い。あまり嗅いだ事のない臭いに眉間に皺を寄せるリィだったが、ここでようやく自分がベッドで眠っていた事に気が付いた。
「……夢」
そう、夢だ。あの悲しそうな女性の声も、視界いっぱいに広がる魔物の牙も。――しかし、それは夢ではないと言いたげに魔獣の瞳は痛み出す。布の上から右目に手を当てていると、「リィ、目が覚めた?」と明るい女性の声が聞こえた。声のした方に顔を向けると、そこには褐色肌に金髪を上の位置に結った女性が水の入った容器を持って立っていた。エメラルドグリーンの瞳は嬉しそうに細められている。
「……アメ。うん、目が覚めた」
「ここは医務室だよ。鍛錬場でグランデルの攻撃を受けて、気絶しちゃったんだよ。覚えている?」
「……ああ、そうだった」
アメリーにそう言われ、ぼんやりと思い出す。グランデルの一発が打ち込まれた額に手を当てると、こぶや傷は無かった。あの衝撃なら大きなこぶが出来ていたはずだが、リィの再生能力の前では、すぐに消え去ってしまったのだろう。――そして、アメリーと会話している間に、右目の痛みも無くなっていた。
「リィ、途中まで勝てそうだったのに残念だったね」
「……グランはとても強い男だ。俺が負けるのは仕方がない」
リィは本心からそう言う。グランデルという男の強さは身を持って知った。途中、彼の剣が鈍ったのは何か考え事をしていたからだ。もし本気の彼と戦っていたらリィは隙を突く事も出来なかった。
「――いや、リィが隙を見せなければ私はあそこで負けていただろう」
そしてそれは戦った当人も同じようで、医務室に入って来たグランデルは開口一番にそう言った。
「リィ、もう大丈夫か? 怪我をさせてしまいすまなかった」
「……うん、もう怪我はない」
リィはそう言いながら自分の前髪を上げて傷一つ無い額を見せると、グランデルは「あんなに大きなこぶが出来ていたのに」と驚いた様子を見せた。彼がリィの再生能力を目の当たりにするのはこれが初めてだ。グランデルは考える素振りを見せてから、口を開いた。
「お前に戦い方を教えたというエダと話をしたいのだが――」
「多分無理。グランは魔力を持っていない。エダは魔力を持つ者にしか見えない」
グランデルは困惑した表情を見せた。彼には聞きたい事が山ほどありそうだが、情報源であるリィは全く頼りにならなそうなので仕方がない。それでも彼はリィに何かを聞きたかったようだが、途中で「失礼します」と言って医務室に一人の騎士が入って来た。
「騎士隊長、ググ村へ出発の件ですが――」
「ああ、それは外で聞こう。――アメルシア王女、私はここで失礼します」
「え、グランデルまたググ村へ行くの?」
「ええ。ググ村がリィを隠していた事をシーラ殿に尋ねなければなりませんので」
アメリーはググ村について尋ねたそうだったが、グランデルは足早に去ってしまった為、詳細を問う事は出来なかった。彼らが退室した為、医務室にはリィとアメリーの二人だけになる。従属している医師は今席を外しているようだ。リィは既に怪我も治り体調は万全なのだが、アメリーが無理はしないでとリィの身体を無理矢理ベッドに押し込んだ。
「……俺はもう元気だ」
「グランデルにやられたっていうのに、もうピンピンしていたら変でしょ」
「ああ、そうか」
既に治った額を擦り、納得する。普通の人間はこぶはすぐに治らないし、まだ意識が戻っていないのだろう。アメリーが包帯を持ってきて、カモフラージュにと額に巻いてくれた。――アメリーはどうやら包帯を巻き慣れていないようで、顔全面に巻かれてしまったが。
「あ、アメ……窒息する」
「え、あ、ごめん!」
鼻と口まで覆われてしまい、声を絞り出しながら助けを求める。腕が取れても騎士隊長に額を突かれても死なない男だが、流石に窒息は辛い。それに気が付いたアメリーは慌てて包帯を外そうとするが、堅く結んでしまった為上手く解けない。包帯の下で、リィの顔がみるみるうちに青ざめていき始めた時――
「リィさん大丈夫ですか⁉ グランデルに額を突かれたと聞きましたが――」
血相を変えたアリソンが医務室に入って来た。鍛錬場での出来事を誰かから聞いたのだろう。無事な姿を確認しておきたかったアリソンだが――リィの顔面に包帯が巻かれ、今にも窒息しそうな姿を見て、更に顔を青ざめる事となった。
「な、な、な、何をやっているんだアメリー‼」
***
アリソンが包帯を解いてくれたお陰で、リィは窒息死しないで済んだ。新鮮な空気を肺いっぱいに満喫してから、リィはアリソンにお礼を言った。こぶが無くなった事を隠す為のカモフラージュで包帯を巻いていた事を知ると、アリソンが器用にリィの額に巻き直してくれた。
「全く、姉上は不器用なんですからこういう事はしないでください!」
「あはは、ごめん……」
リィは巻かれた包帯を触ってみる。包帯は綺麗に巻かれていた。額に巻く為には右目を隠す布が邪魔だった為、今は両目どちらとも晒している状態になっている。黒色の左目は眠そうに垂れ、金色の右目は吊り上がっている。その瞳を、アリソンはまじまじと見つめた。
「それにしても、本当に傷が消えてしまうんですね。これはリィスクレウムの瞳の力なのでしょうか」
「……多分、そう」
「リィスクレウムの伝承はほとんど残されておらず、その身体に再生能力があったかどうかも分かっていません。もし、本当にその瞳がリィスクレウムのものだとしたら、これは大発見ですよ……!」
アリソンは探究心が強く、知らない事は調べてでも理解しないと気が済まないタチのようだ。アリソンは夢中になっていて気付いていないが、いつも無表情のリィが若干引いている。このままだとアリソンの質問攻めが始まってしまいそうだったので困惑していると、アメリーが助け舟を出してくれた。
「そういえばさ、リィはグランデルと戦っている時にどうして動きを止めたの? あのまま剣を胸に当てていればリィが勝っていたのに」
「えっ⁉ リィさんはあのグランデルに勝てそうだったんですか⁉」
幸い、アリソンの興味がそちらに逸れたが、更にリィへの興味が高まってしまう事となりあまり好転していないようだ。アリソンに返事をすると余計に話がこじれてしまうと思い、リィはアメリーの問い掛けに答える。
「……エダの声が聞こえたような気がして」
「エダ?」
「ああ、リィさんが言っていた魔物の森の守り神の事ですよね」
エダの名前にアリソンが反応する。どうやらアメリーのいなかった場所でリィがエダの事を伝えていたらしい。
「この世界に魔物はいますが、守り神というものは聞いた事がありません。神を信仰する宗教はありますが、魔物の森の守り神とは一体何なのでしょうか」
アリソンは自分の頬に手を当てる。この場にいる者達では、その答えを導き出す事は出来ないだろう。一番近くにいた存在のリィですらよく分かっていない。この話は進みそうにないので、そのまま終わりそうになった時だった。
「え⁉ 皆俺の事気になっているの? 俺って人気者?」
突然上からケラケラと笑う声が降って来た。アメリーとアリソンは突然の事に肩を震わせて素早く上を見る。少し遅れてリィも同じ方向を見た。
そこに、一人の男がいた。ウェーブのかかった茶髪を高い位置で一つに結い、目元は炎の紋様が描かれた白い布で覆われている為表情は分からないが、口元は弧を描いている。彼は重力を無視して、ふわふわと浮いていた。
「わ、わ―――⁉ 人が、浮いている‼」
アリソンはあまりの衝撃にその場で尻餅をついてしまう。アメリーは驚いた表情を浮かべているものの、見た事のある顔だったので目を見開いた。リィは特に驚いた様子もなく見上げている。
宙に浮いているのは、先程まで話題に上がっていた人物。魔力のある者にしか姿を見る事が出来ない魔物の森の守り神。
「……エダ。どうしてここに」
「やっほー、リィ。寂しくて会いに来ちゃった!」
怪訝そうに眉を潜めるリィに、エダはわざとらしく笑ってみせた。
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