その場にいた者に広がる動揺。
慌てたような雅義の声が耳元に響く。
「な…、ちょっ…黒橋さん!龍哉っ!へいき?!」
俺は答える。
「平気、口んなか、ちょっと切れたけど」
「平気って…口んなか切ってんじゃ大丈夫なんかじゃ…」
「大丈夫だよ、口んなかの怪我は普通の表皮の何倍もの速さで治る」
「そういう問題じゃ…」
だが。
「ストップ」
雅義の甲高い声は文親の落ち着きはらった声で沈黙に落ちざるを得なくなる。
「常磐。これはね、おあいこの親子喧嘩終了イベントの一環なので、あまり、騒ぐな」
「へ?」
「只今を持ってお互いに遺恨なし。後悔も自己嫌悪も無しでね。それで
俺は黒橋を見る。そして黒橋も俺を打ったほうの手を握りしめながら俺を見る。
「…了解」
「…
「よし、手打ちだ」
文親は笑い。
俺達はそれぞれの席に戻る。
大将と職人二人も呼び戻されて、何事もなかったかのようにまた食事会は再開される。
「…痛っ」
新たに注文した冷酒が少し傷に滲みるが、
「…俺さ、紫藤先輩を敵に回す気は昔から全くないし、将来も全く無いけど。本当にこういうの見ちゃうと、未来永劫、逆らう気失せるわ~。あの、外でどんな会談行われてああなったのか…。考えるだに恐ろしい」
雅義。全く同感だ。
一切の遠慮会釈を除いた俺への黒橋の平手打ち。
文親さん…やっぱりあんた、怖いわ。
これからの【西】への対処。
口には出さない壮行の意味合いもあるこの会の軸をぶれさせていたモノを綺麗に治めてみせるあんたの冷悧さ、相反するかのようだが底に流れる情の深さ…。
それが紫藤文親のカリスマ性なのだろう。
とりあえずは今日。
帰ったらもう一度、黒橋と話し合おう。
それが多分、文親への礼儀だと俺は思うから──。
二時間後。
「それじゃ、また電話するよ、龍哉。マサくんと氷見くんもまたね」
「ご馳走さまでしたー♪悠希、帰ろ?」
「雅義さん、飲みすぎですよ。それじゃ、龍哉さん、また随時、連絡いたしますから」
「分かった、頼む、篁」
食事会はあの後からは至ってスムーズに進み、和やかに終了した。
そして、文親は俺達に配慮してか、篁と雅義を連れて、早々と帰っていった。
「それでは若、私とマサくんは先に戻ります」
氷見とマサは迎えにきた組員の運転する車で帰ってゆき、俺と黒橋は店から少し離れた専用駐車場に止まっていた国東の運転するBMWの中で、久しぶりに主従二人になった(正確には三人だが)。
「国東。悪いが暫く街なかを流してくれ」
「承知しました、若」
言ってしまうと俺は後部座席に身を預ける。
「……痛みますか」
「…少し、な」
静かな黒橋の声。
「先程の事を…謝らない、『何も』…聞かない。それが清瀧の若との約束です」
「そうか」
「…只、『重かった』と言ったのは。あそこでわざと貴方に誤解させるような言動をした事は、謝ります」
「……」
俺も黒橋も前方を向いたまま、会話は続く。
「私の気持ちの話、そう言って。貴方に取りつく島を与えなかった。私の肩にかかった指をほどいた時の貴方の絶望的な瞳の色だけは、胸に、刺さりましたが。…俺にも意地があった」
敢えて一人称を俺に変える黒橋の意図に気づかぬほど、
「…そうか」
「氷見は…俺が髪を切ると言った時、俺を止めました」
少しうつむいて、黒橋は言葉を継ぐ。
「…それは補佐にとっては必要な《執着》なのではないですか?…と」
「…っ」
「どんなに貴方に勇ましい事を吹いた所で、黒橋淳騎という男は…私は、古いタイプの極道です。姿を変えず、気持ちを変えず、支え続けていく事が当然だと思い込んでいた。私はもう、初めて貴方にお会いした時の二十一でも、貴方と盃を交わした二十七でもなく、貴方も、十四の子供でも、二十の若造でもないのに」
「…淳騎」
「だから、切ったんですよ。自戒だと言ったでしょう」
ふっ、と黒橋は笑んでみせる。
「貴方を支える為に私もまた、変わる時期がきたのだと、そう思ったから。氷見が入った意味もそれでこそ活きてくる」
「……」
「そうだ、相当誓さんに絞られたみたいですね。メールが来ましたよ、翌日。私のスマホに」
「!」
「“こてんぱんにしてやったけど、あいつは俺の言葉だけで傷ついていた訳じゃないよ”って。“あんなに蒼白な桐生龍哉の表情は見たことがなかった”と」
誓さんのおせっかい。
「…俺は馬鹿だからな」
「龍哉さん」
「親を気取った所で所詮は精神的にガキのままの俺の身勝手な我が儘でお前を何度も傷つけてきて。…でも、自分がやられたら、随分と痛かったよ。…勝手なモンだがな。お前が俺に静かに激怒するの、常磐に行って怒られたあの時の数十倍…マジ怖かった」
「怖かったですか」
「ああ」
車内の暗がりで数日振りに二人で話して。
ほっとしたような自分の心に戸惑う。
黒橋の色を無くしたような無感情な眼がどれ程俺自身を傷つけるのかを思い知ったこの数日。
それはあんな『眼』を黒橋からだけは向けられたくないと思い知った数日間。
実の母親の冷えた眼には耐えられたのに。
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