そこに揺れていた長い髪はもう、無い。その代わりに黒橋から薄く薫る【ブラック】。
それに気づいて、俺は目を見開く。
「…髪を切ったのは、敢えて言うなら『自戒』です。自戒の理由までは貴方に話すつもりはない。少なくとも、今は。でも、分かりましたよ、切って初めて。…随分と、重かったのだとね」
「……っ!」
「言っておきますが、妙な誤解はしないで下さい。【貴方の話】ではなく、【私の気持ちの話】です。
…もう行っていいですか?ああ、そうそう。組長からのお電話で、例の店の予約、出来そうだと。本決まりになり次第、またご連絡頂けるようですが。それでは」
肩から俺の指をそっと外して。
後ろを向けて振り返らずに去ってゆく黒橋に、何も言えなかった。
「……あの、黒橋さん……。清瀧の若がこられる前に。マナーを…」
沈んでいた回想から、マサの遠慮がちな声で引き戻された。
「基本は美味しく食べる事ですが。今日はお店の『おまかせ』を出して頂くようになっているので、手をつけるときは、自分と向かって左から右に食べるようにしてみなさい。さっぱりとしたものから味の濃厚なもので終わるように構成されているのが、おまかせですから。左から順に食べていくと丁度良いようにして下さってますからね。…あってますか?大将?」
黒橋はカウンターを挟んで包丁研ぎに余念のない五十代程の男に声をかける。
「完璧です、黒橋様。…若い方もあまり緊張なさらず、楽しんで下さい。何かあればこちらからもお教えしますから」
「はい、よろしくお願いします!」
マサの返事に大将と呼ばれた男が素朴な笑みを浮かべる。
素直な十九歳には百戦錬磨であろう名店の大将すら絆されるのか。素直じゃない二十四の俺は黙り込むしかない。…だが。
「わぁ」
不意に耳に飛び込んできた聞きなれすぎた声にとっさに入り口方向を見れば。
立っていたのは文親と、雅義と篁。
「げ」
「はい、頂きました♪安定の嫌がり発言♪」
「ここまで瞬時に眉間に皺が刻まれるといっそ気持ちが良いですね、雅義さん」
「おい、龍哉、今日常磐と篁は俺が連れてきた客なんだから、そんな顔するな」
無理です、先輩。
「黒橋さんから正式にこの食事会の話が決定したって電話あった時に二人を数に入れられる?って聞いたら、大丈夫って請け負ってくれたんだよ?聞いてない?」
「…初耳だ」
「可愛いサプライズです」
「三十一の男が二十四の男に仕掛ける意地悪を可愛いサプライズ♪とは呼ばん」
「おや?何か意地悪をされる覚えでも?私は隆正様のご指示のもと、全て手配したつもりですが」
「お前なあ、」
「ストップ。いつまで俺達を立たせておく気?席替えしろ、龍哉」
「…文親」
「大将に向かって、一番右端が黒橋さん。氷見くん、菱谷くん。俺、篁くん、龍哉、常磐。さっさと移動。ちなみにこれは立場身分は順不同。ほら、早く」
涼やかな声に圧倒されて言われたまま、動く面々。
黒橋と離れたのは少しだけ、気が楽だけど。常磐主従に挟まれるって…。お仕置きなの?
「なんかさ、紫藤先輩、男前度が増したよね」
「……」
「雅義さん……。優しくしておあげなさい。ちょっと弱ってる気配がしますよ」
「うん…。多分あの一番右端で氷見くんと冷酒飲み始めた人のせいだよね…。なんか、酒飲んでつまみ食ってるだけなのに、すっげえ冷気が漂ってくる」
さすがに雅義にもわかるレベルなのか…。
「まあ、あれはわざとでしょうがね。…龍哉さん、この同級生バリアーの中に放り込んで下さったのは、清…紫藤先輩のお優しさですから。何があったのかは聞きませんから暫くはお嫌でしょうが常磐サンドに我慢なさって下さい」
「うんうん、悠希の言うとおり」
「……了解」
全く嫌になる。
自己嫌悪してるときほど、周りの《優しさ》ってやつに気がついて。
余計自分の
「先輩~。どんどん食べましょ?せっかくの食事会だし~、龍哉の奢りだし~」
「ああ、そうだな(笑)」
「皆も遠慮はしないでね~」
おい、雅義、それをお前が言うな。遠慮しろよ、全く。
気がつけば、文親が横に座るガチガチに緊張してるのがまる分かりのマサの顔を覗き込むようにして話しかけている。
「…この間は有難うね。待っている間、随分心細い思いをさせてしまったろうって、篠崎とも話してたんだ」
「いえ、その…あの…。何か俺みたいのが急に飛び出して、えっと…紫藤の坊っちゃんにご無礼ではなかったかって…俺」
「ううん、お蔭で助かった。君の気持ちはきちんと受け取ったし、俺はマサにまで迷惑かけたのかーって龍哉に罪悪感植えつけられたしね」
文親は俺に目線を流してくる。
俺は肩を落とす。
「いえ、あの…俺が勝手にやってしまった事なんでお二人がご不快になってなければ…と…」
「みてごらん、龍哉。これが本当の純真というものだよ」
「いやーん、ピュアっピュアっ!後ろに天使の羽収納してない?って問い詰めたいくらい!世俗に汚れた俺達には眩しいレベル!なあ、龍哉?」
文親と雅義の二連続攻撃。
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