俺が舌を巻いたと言ったのはその表情だ。

今軽く聞いただけでも事情も扱いも酷いものだ。

先代との最期の約束の為、どんな無理をも処理してきた…。解放されれば普通の男ならば抑えてきた私怨に呑まれるだろう。

でも氷見は違った。

もう、いいのだ、と。楽になったのだと成瀬に告げた時。中条昭次がその死に際して不本意ながらもその背に乗せた重い荷物が外れたのだろう。

外したのは多分、黒橋の言葉。


もう、淳騎ちゃんも結構男殺しで人蕩ひとたらしなのに(笑)。なんで、俺だけいつも怒られるんだろう。


っていうか、俺の周りに人をたらし込むのが上手い奴がまた増えた気が…。気づかなかった事にしとこう、今は。


「おーい、氷見、ちょっとストップ」

「…はっ」

「着替えてこい。血だらけだ。デビューにしちゃ大健闘だが、お前は今日はラストまでしなくていい。能ある鷹が本当に爪隠しまくってたっつうか、がれてたっていうかが分かっただけでもこっちはホクホクだしな。おい、宮瀬、シャワー室案内してやれ。黒橋、着替えは」

「ありますよ。私も彼らと一緒に行きましょうか」

「…ああ、そうだなあ、いいぞ」


成瀬はもう息をしているだけの物体だ。

そして、中条も。

ただ俺と黒橋で肩を抑えてショーを聞かせていただけなのに。

いつの間にか、顔と口元は涙とヨダレでまみれ、ぶつぶつと意味の分からない呟きを口から零している。ションベンでも漏らしたのか、股の間からアンモニア臭が匂う。

歳は俺より上でも結局は箱入り息子、造られた箱庭の中でしか王様ではいられなかった凡人。極限下の恐怖は彼を壊すには充分だったらしい。幹部は潰されて組はばらばら、その敵に捕まった自分。いたぶられる愛人。裏切った(彼からすれば)部下の隠した爪と牙、真の『才能』を知ることとなった衝撃は、彼に現実から永遠に逃避する道を選ばせたらしい。

こちらはまだ本気すら出していないのに。

…甘ったるくて反吐が出る。


「おーい、新庄。こいつらを【処理】しとけ。別々にな、指示は聞いているか?」

「はい、黒橋さんから」

「じゃ、頼む。俺、ちょっと車にいるわ」

「……はい。分かりました、黒橋さんにお伝えしておきます」

「…すまん」



車に戻ると、運転席で何かを読んでいたマサが俺に気づいてすぐ助手席に本を伏せ、後部座席を開けてくれた。


「お疲れ様です」

「おう。…なんか読んでた?」

「えーと…あの…」


助手席を覗き込むと。


「『あなたでも出来る目上の人との上手い付き合いかた、会話集』?」

「この頃、若のお供で色んな所へ行って…。ただ守るだけじゃなく、他の組の人でも、礼儀を尽くさなきゃいけない目上の方とか、きちんと話せるようにならないと若に恥をかかせるのじゃないかと…。ちょっと前から」


「…誰かに言われたのか」

「いえ。自分で」

「そうか」


ここにもいた。どんな細やかな物事も自分への学びに変える人間が。強いからではない。弱いからこそ、負けないための努力をする。誰かに誉められたいわけでも誇りたい訳でもない。あの時、あの悔しさを、そのままにせず、自分だけが分かる努力でいいから行動する事を自分に課す。そうする事で、己に負けなかったという痕跡を確かに胸に残すのだ。


「そうか」


氷見もそうだったのかもしれない。


「マサ、悪いがいつものホテルへ行ってくれるか」

「若…」

「黒橋の事だから、俺が抜ける事は多分承知で部屋も押さえてる」


ただ、文親にはなんの連絡もしていない。

来ない確率が九割以上の負け戦。

それでも。


「…分かりました。安全運転で、急ぎます!」


言ってる事が矛盾しているマサの言葉に笑いながら。

心の中に浮かんでいたのは哀しげだったあの人の表情かお

逢いたかった。ただひたすらに逢いたかった。

本当は全部を放り捨てて飛んで行きたかった。

でもどうしてもそれはできなかった。

隙を見せれば付け入る口実を与える。

だから敢えて独断した。あの人がどう思うかなんて分かりきっていても。

そして今日まで、その冷酷さで恋という感情を突き放し続けた。


スーツの上着の内ポケットからそっとスマホを取り出して、メール画面を出し、アドレスをタップする。

文面はただ一言。


“待ってる”


《送信》が中々押せなくて自分の臆病さに呆れる。

今の今まで敵の血に染まりながら、震えもしなかったのに。来ないかもしれないと、あの部屋で朝まで一人過ごすのかもしれないと考えるだけで心が震える。


でも仕方ない。

俺は《送信》をタップして目を閉じ、後部の座席に深く身を預ける。


いつも待たせてしまうあの部屋で、今日は自分が恋人を待つ──。己の恋心の滑稽さでその身を焼きながら。

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