俺の前に自らくだって、膝を折り、親子の盃を交わしたあの時に、たった一つだけ俺は黒橋に命じた。


『【子】となるのなら、それも生涯かけて俺の最初の子分となるのなら、痛みや傷を心に負うときに俺だけに分かるしるべを付けろ』


と。


『それを俺に判らせるのはお前だけの特権にしてやる。オヤジを放ってこんなガキの【子供】になってくれるなら、それぐらいは安い』


そう言って、俺は自分が好きで使っていて、余分に持っていた新品の《ブラック》を黒橋に手渡した。

トップノートはブラックティー・ローズウッド・ベルガモット。それから最後にはブルガリらしいセクシーなムスクへと変わり。微かにバニラの香も薫る。


『俺のエゴだ。でも俺は俺の為に最初にひざまずいてくれたお前の苦しみや痛みはこの手にいつも握っていたいんだ。これなら口に出して言わなくても分かる。お前の心に無痛のままつく、傷が』

『…頂戴、致します。龍哉さん。貴方をこの身をかけて生涯…、護ります』


受けとって胸に抱えるように香水の瓶を抱いた黒橋の指先が震えていたのを、今も覚えている。





これは文親さえも知らぬ、教えるつもりもない俺と黒橋、いや…淳騎の、主と従の不文律ルール──。

あの日以来俺は《ブラック》をつけていない。

それはもう誓いとして淳騎に与えたものだから。

別にこの香りが黒橋の身体を包んでいても、別段言葉にしてねぎらいなどしない。ただ確認し、黒橋は答えるだけ。それで充分なのだ。


「若も着替えて来て下さい。松下さんも行くのなら、相応のステーキハウスに予約を入れねば。いくつか心当たりがありますから。…上着は脱いで頂いて有難いですけれど、スーツのズボンは汚らわしいものを蹴り倒したのですから替えて頂きます」

「分かった、替えてくる」

「お部屋のクローゼットにご用意させて頂きました。それをどうぞ」


本当に出来た俺の【刃】──。


「先に叔父貴と部屋で待て。…すぐに、行く」

「…はい」



自室に戻って、クローゼットを開けると。

黒地に細い銀の縦ストライプ。イタリア製のダブルのオーダースーツ。気に入って着ている中でもフォーマル向きで年上の松下の叔父貴と会食するには文句のつけようもない。

俺は黙ってそれを着る。

着ながら、考える。

この先を。

──阪口は潰す。

それはもう決定事項だ。

親父に聞いたわけでも爺様に聞いたわけでもないが、あの二人は俺に否やは言わない。

俺の真の頑なさを理解してくれているから。

ならば周囲の雑音など要らない。

阪口を潰し、鬼頭を追い詰め、その先にいる『敵』に。

戦の布告がしたいだけだ。

戦が始まるのかどうかは別にして。


暫くは抗争もなく穏やかだったこの数年。周りを巻き込む事への微かな迷いを。俺は今、捨てた。

棄てなければ掴めないのなら惜しげもなく捨ててやる。

本当に護りたいものは僅か。それを背に庇いながら、必ず。俺は、──勝つ。

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