どうせすぐに帰ってくる。

几帳面にアイロンがあてられたジャストサイズの真っ白なブランドシャツ。自室以外に黒橋の部屋にも少なからずストックしてある俺用のそれを、取りに行っただけだ。あの男は。


「…下っ端、三下は如何にもやられたように、【上】のヤツラはやり合ったように、か」

「本当はもう一人も自分で仕上げたかったんですがね、多分無理だ。ご機嫌ナナメだったからなあ、黒橋。飽きたって言ってたし」

「凄かったぞ? 久々に見たが、まさに鬼神の如く、だ。龍坊の側に来てから黒橋は益々磨かれたなあ。羨ましいっちゃ、羨ましい。義理人情、信義がすたれていくばっかりのこの世界で【親子】の繋がりが厚いからな、坊のところは」

「…俺がいつまでも『馬鹿』だから、淳騎が眼を離せないだけですよ」

「坊」

「馬鹿みたいに俺はこの極道の世界に入れ込んでる。たった一つ見つけた俺の【場所】だから」

「だから護るんだろ、あいつも」

「…ですかね。だったら、いいな」

「に、しても、遅いな?シャツ一枚取りに行っただけにしちゃあ」


叔父貴と話しているうちにかれこれ二十分は経っている。


「風呂でも行ったかな?…おい、新庄、コレ下げとけや」


俺は意識の消えた男を指で示す。


「はっ」


そして新庄と宮瀬が男を抱えて部屋から出ていった、そのタイミングで黒橋が戻ってくる。


濡れた黒髪。

先ほど来ていた朝から少し堅苦しいんじゃ、と思わせたスーツ姿から、真っ黒なボタンダウンカラー(襟)シャツと同色のスラックスに着替えている。ボタンダウンカラーは衿とシャツ先がボタンでとめられているため、ノーネクタイOKのカジュアルなものだが、俺と叔父貴の前で見せるには珍しい姿だ。


「…遅くなりました」

「ね?やっぱり風呂だったでしょう?」

「本当だ」

「龍哉さん、はい、着替えてください」


黒橋は脇に抱えていた俺の替えシャツを差し出す。

その時に身体が近づいて。

密やかに鼻をかすめる、ある香り。

俺は眼を細める。


「サンキュ。…何発撃った?」

「…二発。肩と腹」

「銃は?」

「若が遊んでたほうの男のマカロフです」

「ふーん」


マカロフは、近年日本の暴力団の中に広まりつつある銃だ。一昔前はロシア軍が発祥で中国で大量コピーされたトカレフが主流だったが、余りの粗製乱造、安全性の低さに、同じロシア軍発祥でも比較的安全性が高いマカロフにとって代わられてきている。


指紋モンは持ち主のものしか出ませんよ」


口調は穏やかなまま、笑みすら浮かべて事務的に。


「…可哀想に、幹部同士、仲間割れを起こしてリンチされた奴が最期の力を振り絞ったけど、コントロールが利かなくて。二発当たっちゃったんだなあ」

「そう、ですね」


自分で聞いても白々しい台詞。応えたのは松下の叔父貴。


「予測できない事、ってのは起こるもんだからな」

「ええ。叔父貴」


袖口が血に染まったシャツを脱ぎ捨てて、渡された濡れタオルで拳と手首を拭い、新しいシャツに着替える。


「…黒橋が始末すんのは分かってたんだな?」

「ええ。こいつは飽きたと言いましたし、袖口の血を見た時、心底から冷えた眼をしましたから。あ、叔父貴、座りませんか?お前も座れ、黒橋」


隅のソファーを俺は指す。


「じゃあ、言葉に甘えて」

「掛けさせて頂きます」


未だ血臭が漂う部屋で。くつろごうとする俺たちは確かに人でなしなんだろう。


「あー、肉喰いてぇな~。ミディアムレアのステーキ。三百グラムくらいガッツリ(笑)」

「貴方のそのデリカシーのなさは才能ですね」

「えー、だって久しぶりに本気だして無表情作って嫌がらせしたら腹へるのなんの」

「…はあ。松下さん、良かったらお昼ご一緒にいかがですか。若が小うるさいのだけ我慢して頂かなくてはいけませんが」

「いいのかい?」

「今この若と二人にされたら私の神経が持ちません」

「分かった分かった(笑)。じゃ、着替えて来るかな」


松下の叔父貴は今さっき座ったばかりのソファーから軽く立ち上がり、部屋で待ってる、と言い置くと部屋を出ていく。

扉が閉じたそのタイミングで、俺は向かいに座る黒橋の髪の一房を軽く掴み、自分にグッと引き寄せる。


「ブルガリの《ブラック》。相変わらず、これか。淳騎。…もう本国でも廃盤になってるってのに律儀だな」

「ええ、好きですから。もうあまりつける事も無いんですがね、たまにつけるなら尚更、好きな香りが良い。ご心配なさらず。自分で買い溜めた未開封がまだまだ有ります。それに…」


言いながら黒橋は俺の襟元を軽く掴んで自分の首元へ寄せる。


「《この香り》を選んでくれたのは貴方でしょう?…龍哉さん?」

「……全く可愛い【子供】だよ」

「貴方も出来た【親】ですよ」



《ブラック》──。

この香水は、俺と黒橋にとってはある特別な意味を持つ。普段はけして香水の部類はつけない黒橋がその香りを身にまとうのは。


──俺の為にその手を自ら汚し、他者の命の火を消した時──。

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