妙に不機嫌そうな後ろ姿。
その理由が分からず少し考えて、突然、腑に落ちる。
「淳騎…自分だってガキじゃねえか」
『自由に使えと言われて、甘える気になった』
その俺の一言で、多分、黒橋は松下の叔父貴に僅かなりとも妬心を抱いたのだ。比べても仕方の無いことに心が揺れる。それも人間なのだろう。
本人はけして認めないだろうが。
今自室へ向かっている男が小さく唇を噛んでいるだろう事を想像して、俺はそっとほくそ笑む。
「あの人以外で俺を一番に甘やかしてるのは…お前の癖に」
──届かない呟きが甘いのを、俺はちゃんと自覚していた──。
「しかしまあ、黒橋が坊に甘いのは分かっちゃいたが、補佐みずからが調査にこんなに積極的だとは、可愛がられてんな、坊も」
一時間ほど後。酒の席の
男三人、杯を傾けながら、三人とも酔いの欠片も見せないという奇妙な状況の中で、叔父貴は俺と黒橋を見ながら笑う。
「若いのに任せたいのは山々ですが、あいにく出来る事は自分でやってしまいたい我が儘が抜けませんで。若には御不自由をお掛けしております」
黒橋は、少し硬い口調でそれに答える。
「いや、いいんじゃねえか?確かに下を動かすのは大事だが、上がきっちり動く事で下が引き締まるって事もあるからな」
「本当は、松下さんにお世話をかけることはしたくなかったんですが。…高橋達の事も有りますし」
高橋達っていうのは、マサの金や食い物を裏でかすめ取っていた下っ端の構成員達で、今は松下の叔父貴の所に『修業』に出している。
だが。
「ああ。あいつらか。心配すんな、ありゃ駄目だった。うちの組で奴等に付けてたのが根を上げたんで、ちょーっと知り合いの漁師に頼み込んで今、マグロかカジキ釣る船ん中だ。うちの今年入った下っ端より根性なくてな。一週間で逃げ出そうとしたから、【話し合い】はしたんだがな。適正がないっつうのはどの業界でも頭痛の種だなあ。こりゃ、戻せないなって事で
「ちょっと聞かない間にそんな事に」
「すまねえな、勝手な事して」
そう言う松下の叔父貴に俺が頭を下げると。
「いや、預けられてる事実上謹慎の身で逃げようなんざ本来は消去案件。“労働者”になれただけマシでしょう。お手数お掛けした上、御配慮頂いて、大変申し訳ありません。有難うございます」
横から黒橋が俺の言葉を代えるかのように口を出す。
【親】の代わりに【子】が詫びる。
それは相手が【身内】でも。礼にかなったやり方だ。
「そう言って貰えりゃ、気が楽だがな、黒橋」
松下の叔父貴は眼を細めて、そんな黒橋を見ている。
俺が桐生に来る前、黒橋がまだ十代の頃から知っていて。
かなり目をかけていたらしい叔父貴には黒橋が幾つになっても可愛い、年のかなり離れた弟分のようなものなのだろう。
「…で、どうする?お前の事だ、組を数日空けて、ただ調べて帰った訳じゃあないんだろ?」
「…中条の腰巾着の
「へえ」
「結構な大病だったようで、普通のサラリーマンで二人の子供はまだ幼稚園、妻は専業主婦。行き詰まりかけた所に暎智が手を差しのべた。自分の《正体》は隠してね。お陰で母親は、助からなかったけれど高度治療を受けて最期は安らかだった…らしいですが」
「どこをどうとっても兄弟二人めでたしめでたしにはならない展開だな」
「…兄貴の妻ってのが市議会議員だかの家系で」
「兄貴に知られないように裏で利権関係いじくりたいってのが透けて見えんなあ」
「しかも、その妻っていうのが介護ストレスからだったのか、兄弟関係復活直後くらいから、ホストに入れあげまして。真面目な人間ほど転落しやすい沼ですよ。母親っていうのも最後は認知機能が壊れてたみたいですしね。苦労したでしょう」
「分かりやすい…」
「勿論、旦那には内緒なんで、弟が親身になったという訳で」
おそらく転落させたのはその弟だろうにな。
「ズブズブじゃねえか。なあ、坊ん」
「…全く」
「…で?」
いつの間にか無くなった酒を三人の杯にそれぞれ注ぎながら叔父貴が
「彼女が御執心になった男のいるホストクラブに暫く前に新人が入りましてね。その新人は先輩に目をつけられることなく巧妙に、奥さんの耳に吹き込みを続けたわけです。“先輩、ここの所何だか貴女に冷たいですよね?僕なら貴女を泣かせないのに”、“義弟さんはお金を都合してくれるけど、あの人を紹介しろ、この代議士さんに会わせろってうるさいんでしょ?それ、脅しじゃない?”、“今はまだ旦那さんに内緒だけど、ばれたら終了ですよね?僕、優しい貴女にそんな哀しい事が起きたら嫌だ”って」
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