5
それは暗い部屋のなか。
「………っ!やめて…くれよっ!さっき言ったろ…っ?俺は本当に知らねえんだって!」
「知らねえ知らねえいう割には痛め付けるたんびにボロボロこぼれるな、お前の口は?そろそろ右手の
床に引き据えられて、顔中をヨダレだか涙だか分からない汁で汚している男。
その男の手の甲の上に、何の力加減もなく目前に立っていたもう一人の男の足が下ろされ、曇りもなく磨かれた靴の踵が力任せに男の手の甲から手首にかけてを踏みにじる。
鈍い、骨の砕ける、音。
「ぎゃあっ!」
「いけねぇ、いけねぇ。つい、うっかり間違って手首踏んじまった。悪いなあ?」
悪いなどとは欠片も思っていないくせに、笑って男に言葉を投げている。
「……もう、そこらへんにして、休憩したら、松下の叔父貴」
「いやぁ、若、もう少し」
「構わないけど折る骨無くなっちゃうよ?まだ後二人いるんだし、あんまり叔父貴を疲れさせたら、俺が親父に怒られる」
「それじゃ。…連れてけ。三十分したら、まだ痛め付けてないほう、連れてこいや」
「はっ!」
遥香の披露目の日から半月。
俺は二人に言ったように、阪口への容赦をやめた。
元々、関わりのない組だ。目こぼししてやる義理もなかった。
うっすらとこちらの臨戦体勢が伝わるようにしてやれば、阪口の頭の弱い輩どもから順にこちらへ手を出して来て。今はその、“対処”という名の示威行動中。
「でもまあ、卑怯だなあ。幹部と三下ほっぽりだして逃避行か?阪口の組長とその側近とやらは?」
「まあね。悪知恵はきくが、あんまりお
俺は松下の叔父貴、前にも言ったが“神龍の不動明王”という二つ名を持つ、親父の懐刀に向けて自分の小指をひらひらと振ってみせる。
俺が住んでいる別邸の地下にある防音ばっちりの“会議室”。その隅におかれたソファーに腰掛けて二人、別の組員が持って来たウイスキーの水割りを手に会話なんかを始めている。
因みに“会議室”といったって名ばかりで。もっぱらの用途はこうした鳴かない鳥を鳴かせるお仕置き部屋?みたいになってるが。
「へえ?」
と松下の叔父貴は面白そうに片眉を上げてみせる。
「坊のその言い方じゃ、おツムの良いのもいるのかい?」
「一人だけ、ね」
俺の脳裏に浮かんでいるのは、あの日“blue fairy”で初めて会った、あの男。
「それにしても、すみません。たかが躾の効かない野鳥を鳴かす為だけに親父の傍を離れさせちまって」
「いやいや。構わんよ。たまには俺が出かけねえと、うちの組の若いもんの息が詰まるし、本家の
「またまた」
「それに」
と、松下の叔父貴は俺の顔を見てもう一度ニヤッと笑う。
「この世界はハッタリ咬ましてナンボだからなあ。やいのやいの言う薄ら馬鹿には、見えるハッタリ咬まさないと」
「……」
「今までは頼まれ事はあってもこうやって直接坊の為に動く事がなかったが。いい機会だ。やれ、二十四だ、堅気上がりだと
「…叔父貴」
そう言えばこの人は昔から、こういう人だった。
初めて桐生の家に“見学”に来て。
桐生の養子になりたいと即日で決めたあの日。
驚きで声を失っていたらしい幹部連の中で、最初に、
「それじゃあ、来年からは神龍の坊んですね?よろしくお願いしますよ」
と、励ますように声を掛けてくれたのは松下の叔父貴だったのだ。
「いい【眼】をしてる。
こんなガキ、本当に後継に貰うのか、そういう疑心が眼底に沈んでいる他の幹部とは違う暖かい眼差しだった。
恐らく、松下の叔父貴にしても少なからず疑心はあったろうに、それを俺には微塵も見せなかった。
今の発言もそうだ。
本家直参が若頭の為に主導的に動く事に意味が有るのだと笑って言ってみせる。
【本家】というのは親父率いる神龍組本体の事。
舎弟というのは組長の弟分だから本来は組内部の運営に直接影響するような関わりは持たないが、松下の叔父貴は舎弟頭。組長をトップとするなら若頭は二番目、舎弟頭はその次の位置にあたり、神龍では舎弟頭は組執行部に含めているので、かなり偉いおじさんだ。
直参っていうのは因みに本家の組員、中堅幹部以上を指す。そして幹部がそれぞれ組長として治める組のこれまた幹部が組長として開いた組を二次団体、そこからまた発展して三次団体とかがあるわけだ。
うちで言えば【神龍組直参】松下組といえば、中堅幹部以下が名を聞いただけで震え上がるくらいの威力がある。
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