俺は裏面の西荻先輩のサインを確認して黙って小切手を懐に収める。


「今日は楽しかったよ。…色々とね」

「楽しんで頂ければ幸いです。まあ、こんなお願いは何度も無いようにしますがね」

「俺は構わないけどね?紫藤の心臓が持ちそうにないかな?」


西荻先輩はトントン、と自分の胸を叩いて立ち上がりながら、琉音と隆聖に目配せする。

と。

琉音はポケットから取り出したスマホをそっとタップし、隆聖は三條先輩を“確保”する。


「おい、まだ飲んでんぞ!」

「いつまでも意地汚く飲まない。帰りますよ、楓さん。帰りは俺が送りますから」

「…おい、何言ってんだよ、俺は櫻と…」


三條先輩がささやかな抵抗をする間に西荻先輩のスマホが振動する。西荻先輩の指先が優雅に動き、スマホを耳に当てる。


「ああ、沢西?…終わった。車を廻せ。ああ、帰りはあっちでいい。ん?ふふ。あれは気にするな。…うん。じゃあな、英眞えいしん


………。

俺は西荻先輩と三條先輩をもう一度みやる。

この二人の関係性。色々変化があるのかもしれない。

時は流れているものだから。

まあ、今はスルーするとしよう。

たとえ、何の気なしに普通の会話として西荻先輩の口から出た言葉のその声音こわねが、今まで後輩として一度たりとも聞いた事のない優しく、甘いものだったとしても、【お客様】のプライバシーには干渉しないのがルールだ。

今度先輩の店にいつか行った時にでも聞いてみようっていうか、なんとなく、また近いうちに会いそうな予感はするけどね。不本意だけど。



三人、もとい、隆聖くんに連行状態になった三條先輩を加えた四人が、見送りはいいからと部屋を出て行ってしまうと。

一気に緊張状態が薄れて。

残った俺達三人は知らず知らず溜めていた息を吐き出す。


「はぁー、緊張した。やっぱり独特だぁ、西荻先輩。俺、手汗かいちゃった」

「……同感」


同期二人はそんな感想だが。

もう一人の先輩は違うようだ。

声音は静かだが、いつもとは違う威圧的な声で名を呼ばれる。


「龍哉」

「…はいはい。文句は後で聞きます」

「違う」

「…龍哉、俺、席外そうか?」


雅義は気づかって俺に聞くが。


「居てくれ、雅義。今こいつと二人になったら冷静でいられる自信が無い」


文親の言葉に、立ち上がりかけた腰を雅義はまた席に戻す。


「お前は本当に…大事な事は俺に、話さないな」

「そんな事ないよ」

「…何でも自分で勝手に決めて。お前の事後承諾に皆を巻き込んで楽しいか?」

「……」

「答えろよ」

「先輩、龍哉は」

「さっき言った。あんたはアイツが大嫌い。冷静でなんかいられない。だから、余計な事は言わなかった。神龍の若頭としても、不確実な情報はらせない。例え、それが先輩?あんただったとしても、だ」


眼を合わせて言ってやる。

出来るだけ冷たく聞こえる声で。


「あんたが確実に怒るのを覚悟で言わせてもらえば、これは今はまだ桐生と常磐の問題だ。本気だろうが悪戯いたずらだろうが、たまを狙われたのは俺と雅義で。あんたが手を出してもらっては、本当はまずい。そこにあるのはあんたの“私情”、そんでもって、アイツが手を出してくんのも多分“私情”だからな」


文親がひゅっ、と息を飲む音が耳に滑り込んでくる。


「だいたい、まだ名前が出ただけだ。それでこんな過剰反応するくせに、言えるわけがないし。…事後承諾は俺の悪癖だ、ガキの頃からの。今さら直せねぇよ。アンタは忘れてるようだがな」


わざと、半端にうそぶいて。

そんな俺を一番わかってくれているだろう文親に酷い言葉を投げる俺が人でなしなんて事は、とっくに自覚済みだ。


「龍哉、もう止めとけ。言い過ぎだ」

「…ああ」


雅義のほうがよっぽど優しい。


「雅義、悪い。今日は文親さん連れて帰ってくれるか?俺はもう少し、帰れないから」

「…龍哉」

「頼む」

「…わかった」


俺の言葉に顔を上げて眼を見張ったままの文親さんを促して、雅義も部屋を出ていく。

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