無理もない。
俺は自分の横に置かれた袋を引き寄せて覗きこみ、中身を確かめる。化粧箱の外面に小さく刷られた店名がほの暗い照明の中、うっすらと見える。
「京友禅…
「…っ!」
すると、早奈英さんがやっぱり一番に反応する。俺も十分驚いてるけど。
「連絡が急だったから大変だったよ。ちょっと知り合いに無理言っちゃった♪」
聞くのが恐ろしい。だがとにかく。
「早奈英さん、着付けはもちろん出来るよね」
「え、ええ」
こういう店だから、着物の着付け専用のスタッフと美容師には大きなイベント時にはスタッフルームに貼り付いてもらってあるけど。こうした緊急時には高級着物を着慣れた彼女の力は偉大なのだ。
「袋の中に【全部】入ってるからね?」
全部、ねぇ。
意味も分からず戸惑う遥香を慌てて立たせてバックヤードへと消えてゆく早奈英さんの背中を見ながら俺は溜息をつく。
「西荻先輩?…榊さんとお知り合いなんですか?」
「…まあ、いろいろと、ね」
含みのあるもの言い。突っ込みたいけどしないのが賢明。
「ねぇ、龍哉さん、その榊なんとかって人、凄いの?」
「…琉音、物知らずだぞ」
そっとたしなめている隆聖には気の毒だが、一番年若な琉音が知らないのは仕方ない面もある。
「…京友禅の作家さん。だいたい京友禅ってのは基本的に染め、模様描き、絞り、まあその他諸々な各種工程を分業するのが普通なんだけどそれを全部自分でやる人で、まあ、その細かいこと細かいこと。で、人気作家さんになってきたかなーってところで、はい、一年に予約受け付けるのは一件か二件までね、出来上がるのは気長に待っててね?って数年前に表舞台からは
「えー、それで食って、いえ、食べてけるの?」
「元々京都の資産家の息子らしいけど、作家としてやるのに実家の援助は無し。そこを惚れられて、待たされても良いからって未だに予約者は引きもきらず…ですよね?先輩?」
「その通り。龍哉は本当によくものを知ってるね?」
「無駄な知識が多いだけですよ」
「…負けず嫌いですから、か。変わらないね、嬉しいよ。龍哉」
「やめてくださいよ、後が怖い」
大体。
無理言っちゃった♪ってどんな無理いったんだよ?予想つかねえんだよ、この人。そっちが気になるよ。
文親さんの方を見ると、若干困った顔してる。文親さんを無力化するって相当のラスボスだよ。
呼んじゃったの俺なんだけどさ。
と。
不意に。
フロアから歓声が起きる。西荻先輩以外の全員がフロアに目をやり。そのまま、言葉を無くす。
紺青の振り袖。
左肩には垂れ桜の一枝。
右肩からは溢れんばかりの色とりどり大小の牡丹の花が友禅模様と共に袖、裾に至るまで散りばめられている。
友禅の伝統、染めだけではなく金糸、銀糸の飾り刺繍、それに桜、牡丹の花全て、手刺繍のようだ。
まとめられた髪には垂れ桜を模したかんざし。
足元の草履ですら最高級品と見て取れる。勿論帯は西陣。最高級品。遥香のいる場所だけが光るようだった。
「…先輩、あの…あれ」
「ん?…ああ、いろいろ考えて、派手なお色直しなんかが一番手っ取り早くネジの足りないお馬鹿さんたちには威勢が張れるかなって思いついたんだけど、とにかく、急だったからね。榊さんとは前に酒の席で話が合ってデザイン画頼まれて、断ったんだけどどうしてもっていうから、じゃあ、って渡したら偉く気に入られてね。これは世には出さない。自分の腕試しと趣味の延長で出来うる限り完璧に作品にしたいからって。…それを貰っちゃった♪」
「貰っちゃった♪って…先輩」
いいのかよ。
ねだる方もねだるほうだが、渡す榊麗凰という男も相当の器の持ち主だ。
「制作年数三年って言ってたかな?」
「はあ?」
一年に一人か二人しか予約受けない人間が頼まれたものをこなしながら、今見た、芸術的な水準のものを三年?
俺は額を押さえる。
「手離す気はなかったものを…遥香に、ですか。無茶苦茶しますね。さすがは、…櫻先輩」
「懐かしい呼び方だな」
「龍哉…っ」
「紫藤、いいよ」
俺をたしなめようとした文親を先輩は止める。
「俺をファーストネーム呼びする度胸のある後輩なんて後にも先にも桐生龍哉だけだ。本当はお前だって呼んでいいんだけど、紫藤は慎み深いからねぇ」
クックッと、喉で西荻先輩は含み笑う。
俺を見やる瞳に宿る底の知れなさは高校時代から変わらない。
「…すみませんね、慎み深くない、小生意気なワンコのまんまで」
「笑顔が怖いよ、龍哉?いいんだよ、お前はそのままで。それが可愛いんだから。…それより、そろそろお姫様二人を呼び戻してあげないと可哀想だよ?」
確かに。
「ごめんね、早奈英さん。もう、いいよ?」
話の継ぎ目を待っていたのだろう早奈英さんに声をかけてやる。
「お待たせ致しました。さすがに手が緊張して、着付けする指先が震えましたわ」
大げさではなく、榊麗鳳の一点物の振り袖など、幾ら早奈英さんでもそうそう目にした事はないだろう。
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