[地上の蟻]…ねぇ。
そりゃまた卑屈な。
俺は野本の背中を冷たく眺めやって唇の端を笑みの形に歪める。
俺と野本の二人しか生徒会室に向かう廊下にはいない事を瞬時に判断してのアルカイック・スマイル。
背だけは高いが、器量の小さな男。
今ならば満面の笑みを浮かべながらこき下ろしてやるところだが、当時の俺はまだ本性をどこにも出してはいなかった。
しかし、その時。
「ひどいな。そうやって君らが特別扱いするから、善良な子羊ちゃんがみんな逃げちゃうんだよ(笑)」
生徒会室の扉にもたれていた人物の声が、涼やかに俺と野本の間に割り込む。
逆光でその人物の顔は俺の位置からは見えない。
だが、野本の背中が一瞬で緊張したので、すぐに【彼】が目的の人物と知れた。
「紫藤、さんっ」
「ほら、また」
声が近づいて来て、顔が見える。
「…っ!」
その時の衝撃をまだ覚えている。
光を背にして俺に微笑んだ十六歳の、文親。
その美しい顔。
微笑む紅い唇と、少しも笑っていない冷悧な瞳。
「君が桐生、龍哉くん?」
「…ええ、紫藤…先輩」
かろうじて内心の動揺を野本のように文親の前に無様に晒さずに済んだことにほっとしながら答える。
「まあ、廊下でもなんだから中へどうぞ?」
促されて、生徒会室に入る。
「別にわざわざ挨拶なんて要らないんだけど、断るほうが面倒くさくてね」
「はあ」
ソファーに座るように言われ、落ち着いてから改めて顔をあげると、文親が眼を離さずじっと自分を見ていたことに気づく。
切れ長の瞳、高い鼻梁。
美しい、美しい少年だった。二十五の今ですら衰えず冴えるばかりの美貌だ。十六の時の文親の美しさは推してしるべし。
「僕も君と話してみたかったよ」
「…それはどうも」
「いい、
瞬間、俺はムッとした。十五年間周囲からぶつけられてきた“無意識を装った悪意”でこの目前の美人からも弾かれるのかと。相手が自分よりも年上で、しかも格上の組の長男とかは関係なかった。こいつもかという失望が常になく胸を刺して。
けれど。
ムッとした俺を少し驚いたように見て、すぐに文親は怒りもせずニッコリ笑って、ひらひらと手を振り、否定した。
「あー、ごめん、違う違う、そっちの“
「!」
「誤解しないでね。新入生くん」
「…桐生です」
ポカンとした間抜け面で俺と文親のやり取りを野本が傍観している横で、俺は目の前の男が何を否定したのか、俺にきちんと理解させようとしたのかがハッキリ分かり、無愛想になるのは止められなかったが、とりあえず尊敬の念は現すことにする。
「…名前」
「ん?」
「…名前、なんていうんですか、下の名前」
「…知らない?」
「下の名前までは聞いてない」
「紫藤文親。文章の文に親しいと書いて、『ふみちか』」
と、そこで。
ようやくそばの野本が自分を取り戻したらしく、慌てた声で会話に割って入ってくる。
「何、失礼な事聞いてるんだよ?それに、桐生、敬語は?」
なんともはや、間の抜けた指摘。
「あ~、すみません」
「いや、いいよ。…面白い。上っ面で『尊敬』とやらをしてくれる輩にも、そろそろ飽きがきてたところだ」
「…へぇ?」
微笑みの下の冷血が、透けて見える柔らかな、声。
「は?」
分からないといった風に首をふる野本。
多分、この男をトップに飾らなくてはならない野本組の人間は相当苦労するだろう。
トップを取れれば、の話だが。
「でも、紫藤さん、それじゃ、示しがつきません」
「野本くん、だっけ?…悪いけど、さがってくれないかな?二人にしてくれる?」
「…そんな…っ。そいつを連れて来たのは俺で…」
「だから?挨拶とやらを受けるのは俺でしょ?その俺が二人にしてって言ってるんだけど、気が利かないねぇ、君」
「…っ」
「ほら、さっさと出てく」
「…失礼します」
野本は文親に一礼しながら、俺を射殺しそうな眼で睨み付けて部屋を出ていく。
「……」
「不機嫌そうな顔だね」
「…面倒が増えましたから。奴があのまま済ますと思いますか?一応、あれでも一つの組の息子ですよ。前に“馬鹿”がつきますが」
「…違いない」
二人きりになった最初の会話がこれだ。
そう。
九年経っても鮮明に覚えている。
クスクスと笑いながら、口からは冷たく傲岸な言葉が零れる、絶世の美人。
「あれでも、ね。俺もなまじ代紋背負った家に生まれたばかりに、馬鹿の相手もしなきゃいけない。清瀧の名に寄ってくる奴等はたいてい君の言った、前に“馬鹿”のつく息子でね。でも、君は違いそうだね」
「…そうですか。俺も“馬鹿”息子かも知れませんよ」
言うと。
文親は驚いたように俺を見つめた後に、可笑しそうに吹き出す。
「そんな
「渡り合うだなんて。ただ、人が不必要に持ち上げている対象物をみると、その称賛を一度は疑うヒネクレ癖がついてるだけです。先輩後輩の空気を読まないという点では馬鹿ですね」
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