昔と今

時々、夢に見る。

今はもう、遠い──あの日の朝の事を──。




実家の籍から抜け、桐生との養子縁組もとうに終わって、家を出ていく日の朝。


俺の持ち物は残して行く事を決めていたから、着替えが数枚と本を何冊か。一つのスポーツバッグにそれを詰めていると、背後に誰かが立つ気配がした。


「龍哉…」


母だった。


「もう、終わりそう?」

「うん」

「迎えに来るのは九時だったわね」

「うん」


親子の訣別の朝には、淡々過ぎる口調の【母だった、女】、【息子だった】少年。


俺は振り向かずに答えた。

さすがに、どんな顔をしていいかわからなかったからだ。


「…あなたは『戻る』のね」

「!」


母の声は静かに部屋に響いた。


「父は、私が出ていくのを止めなかったわ。ただ、将来子供が産まれたら、長男には自分の“龍”の一文字を入れた名前をつけてくれと言った」

「爺ちゃんが?」

「ええ。止めても無駄だと知っていたんでしょうね」

「……」

「あなたが産まれて、顔を見た瞬間に分かった。あなたは“桐生の子”なのだと」


“桐生の子”。その言葉に俺の手が止まる。


「……。だから、何も言わずに俺を『見て』た?」


冷静に聞こえるように問いを口にする。

「……ええ」


受け答える母だったはずの女の言葉にも動揺は見えない。


「…そう」

「恨んだでしょうね。私はあなたに…優しくなかったから」


あなたが何で悩んでいるのか知っていながら口にも出さず、手も貸さなかった、と苦笑混じりに言う母の声を背後に聞きながら。

俺は不思議に納得した気持ちだった。

祖父龍三郎に、桐生の親族に会った時の解けた気持ちは俺に母を責めさせはしなかった。


「…いいよ。それより、皆をよろしく、母さん」


父や弟妹。最後まで心配そうな顔をしていた家族。

彼らから感じていた【違和感】が消える事は最後までなかったけれど、大切じゃなかったわけじゃない。


「ええ、あなたも元気でね」


そう言った母の声をまだ覚えている。





「…若?若、…龍哉さん」

「んぁ…?」


気づけば朝。目を開ければ俺を覗きこむ、心配そうな黒橋の表情かお。どうやら、文親との電話の後、そのまま寝てしまったらしい。


「あ、…おはよう、黒橋」

「おはよう、じゃありません。…風邪を引きますよ」


口調こそ小言モードだが、心配しているのは確かだ。


「ごめん」

「寝るときはちゃんとパジャマに着替える。龍哉さん、何回普段着で上掛けをかけもせずにそのまま寝入って熱出しましたか?今年、お幾つですか?やっぱり夜に見回ったほうがいいですかね」

「黒橋、…お母さんみてぇ」

「は?」


氷点下よりも冷たい声で聞き返される。


「…なんでもないです」

「よろしい。朝食を運ばせますから食べて下さい」


やっぱりオカン体質だ。

それも実母じゃなくて今の母に似てる。明日美母さん。

組員構い倒して熱血姐さん今なお健在の俺の二人目の『母さん』に。まあ、当たり前か。俺より明日美母さんとの付き合い長いわけだし。


「年々似てくるなぁ、明日美母さんに」

「…それは、褒め言葉ととっておきましょう」


黒橋は人の悪い笑みを浮かべてみせる。


「今日は午前中はクラブ三店舗からの上がりの報告と不動産業務からの定例報告、そして午後に一つご会食が」

「会食?誰?」

「……常磐ときわの坊んです」

「げっ!」

「若、嫌がり過ぎですよ」

「あいつが俺に何の用が」

「…敢えて坊んの言葉通りお伝えしますと、『前に会ってから何ヵ月たってんだよー、紫藤先輩ばっかりじゃなく俺にも会えよー』だそうです」


見事に感情を消した棒読みで俺に伝える黒橋が可哀想だ。個人的な誘いの電話をわざわざ組の電話にかけてくる腹黒い男。電話係につけているのは組でも中堅の者で男の事も知っている。電話口で黒橋を呼べと言われたら断れないその相手は。


常磐組若頭、常磐ときわ雅義まさよし

高校時代からの腐れ縁。

例の、文親に向かって、十キロ四方焼き尽くすくらいの美形、と言いはなったのはこいつだったりする。


「この頃、常磐組とは組長間での協力関係が密になってきていて、断るのは不味まずいです」

「あの野郎、…まあ、いい。何時から?」

「午後四時からです。場所は神楽坂のY亭。行き方は聞いておりますので、お連れします」


気が重い。


「断れない方向から話を振ってきやがって。バカの癖に」

「若、お口が悪いですよ」

「奴が高校の時の補習、何回もまぬがれたのは俺が教えてやったからだ」

「若」

「大体、文親さんと自分を同列に並べるな!エベレストとそこらの名前のない山ぐらい違う(名前の無い山さん、ごめんなさい)わっ!」

「…」

「でもまあ、黒橋に怒っても仕方ないしな」


ため息をついた、丁度そのタイミングで廊下に控えていた組員が朝食を持って部屋へ入ってくる。部屋の中で若頭と補佐が不穏な空気出しまくっていて入るに入れなかったらしい。


「ごめんな、びびったろ?」


聞いてやると組員はぷるぷると首を振る。

そのせいで、朝食の盆がカタカタ震えている。

うちの組員まで怯えさせやがって。

あ、怯えさせてんのは、俺か。

なんだか妙におどおどしてるが。

でも原因はアイツだろう。


「とにかく、朝飯食って午後に備えなきゃな」

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