第36話 大粒の涙

 椅子に座っていたユーティアは困惑する表情を見せた。ギュスターの隣にいるはずのシルフがおらず、代わりにノーアがそこに立っていたのだ。

「執務室の私の机に手紙が置かれていましてね。突然休みたいだなんて、まったく困ったものです」

 と、ノーアは言った。

 状況を飲み込んだユーティアにギュスターは説明をする。

「昨日の夕方から誰も彼を見ていないんだ。何かに巻き込まれたとは思えないが、今は行方不明ってところだな」

「本当はダリウスに代わってもらおうとしたのですが、何か大事な用があると言うので、逃がしてしまいました」

 そしてノーアはため息をついた。

 思わず申し訳ない気分になったユーティアだが、それと同時に何故シルフが休みを願い出たのか疑問に思う。

「……早く、戻ってくるといいですね」

 ユーティアがつぶやくと、ギュスターは少しだけ目をそらした。


 朝食を終えてメイリアスが部屋を出て行くと、珍しくノーアがあくびをこぼした。

「ノーアさん、相当疲れてるみたいですね」

「いえ、そういうつもりはないのですが……」

 そして二度目のあくびを噛み殺すと、ノーアは「申し訳ありません」と、謝った。やはり疲れているのだ。

 その様子に、ユーティアはうしろめたくなった。

「そうじゃないって分かっているけれど、申し訳ないです。いつも、ただ守られているだけで……本当にごめんなさい」

 ギュスターは口を開かなかった。

 ノーアがそんな彼女を気遣って言い返す。

「謝らないでください。あなたは大事な人なんですから」

「……はい、ごめんなさい」

 ギュスターは呼吸を整えるように息をつくと、口を開いた。

「お前が謝る必要はない。そうやって、いつも自分のせいにするから不安定になるんだろう」

 がたっとノーアが空気を読んで席を立ち、陽光差す窓際へ寄って行く。

「誰もお前を責めないんだから、余計なことは考えるな」

 窓の外は快晴だった。

「……分かってる。でもわたし、本当に何も出来ないから」

「それでいいんだ。お前は何もする必要がない」

 ユーティアは唇を結んだ。ギュスターの鋭い視線がこちらをにらんでいた。

「何で、何で分かってくれないの……っ」

 つぶやくように吐き出されたその言葉が、静寂の中に跡形もなく消えていく。

 ギュスターは呆れたようにため息をつき、彼女から視線を外した。

「分かってるさ、お前のことなら。だからこそ、ユーティアの泣き顔は見たくないんだ」

 扉が開き、メイリアスが戻ってくる。それとほぼ同時にギュスターは椅子を立ち、ユーティアのそばにひざまずいた。

 びくっと肩を振るわせたユーティアに、ギュスターが真剣な目を向ける。

「ユーティア、俺と結婚してくれないか?」

 うとうとしていたノーアが目を覚まし、メイリアスは目を丸くする。

「お前が安心して暮らせるようになったら、すぐに村へ戻って一緒に暮らそう」

「いきなり、何で……」

 困惑するユーティアにギュスターはその手をとって、甲へ優しくキスをした。

「お前を他の誰にも渡したくはない。好きなんだ、愛してる」

 分かりきっていることをわざと口にする彼に、ユーティアはますます困惑してしまった。

「……で、でも」

 と、ユーティアは言うと、両目に涙を浮かばせた。間もなく大粒の涙が頬を伝い、淡い緑色のワンピースを濡らす。

 返答を待っていたギュスターは彼女が涙するのを見て、優しくその頭を抱き寄せた。ユーティアが彼の背に腕を回し、嗚咽しながら声を出す。うれし涙だった。


 屋敷の中は珍しくひそひそ話で満ちていた。嫌な空気が循環しているのを感じて、ミシュガーナは世話役の侍女へたずねる。

「何かあったの?」

 室内を綺麗に掃除しながら侍女は答えた。

「昨夜帰宅したきり、シルフィネス坊ちゃまが私室にずっと閉じこもっているんですよ。どうやら気分が優れないみたいで、今日は仕事も休んでいるようです」

「シルフィネスが?」

 侍女は「ええ」とうなずき、ミシュガーナは窓外に見える本館へ目を向けた。

「ご心配ですか?」

「……もちろん」

 心なし落ち込んだミシュガーナを見て、侍女はにっこりと微笑んだ。

「それでは、後であちらへお見舞いに行きましょう。お供いたします」


 扉を開けると同時に目に飛び込んできた光景に、ダリウスは思わず、まずい時に来てしまったのかと思った。

「あら……何の用?」

 と、ダリウスに気がついたメイリアスが問う。

「あ、いや、別に」

 ダリウスは中へ入り、扉をそっと閉めた。

 メイリアスは首をかしげ、ダリウスは静かに彼女へ歩み寄る。

「なあ、聞いていいか。何があったんだ?」

「ミスター・ファールバードがユーティアに求婚したのよ」

 向かいの窓際にいたノーアがこちらを見ていた。

 ダリウスはポケットに手を入れて、しばらく逡巡しゅんじゅんした後、中の物を取り出した。

「これ、やるよ」

 彼女には目もくれずに言いながら、ただ腕を突き出す。

 不意打ちの出来事にメイリアスは驚いたが、その手にあるのが小箱であることに気づく。

 胸が高鳴るのを感じながら、メイリアスはそれを受け取った。

「あ、ありがとう……」

 そして箱を開ければ、乳白色の宝石がついた指輪が現れる。

 ダリウスは横目に彼女を見ると、言った。

「た、高かったんだから、大事にしろよな。お前、がさつだからさ」

「そっちこそ……!」

 メイリアスも顔を上げて言い返そうとするが、何故だか言葉が出てこなかった。喉が詰まって、言いたいことが上手く声にならない。

「……こ、こんな物……もっと、安くてよかった……のに」

 半ば独り言に近かった。

 メイリアスの瞳に涙があふれ、ダリウスは視線を宙へ向けて言い返す。

「これも、大事な儀式だろ。いちいちお前のわがままに応えてられねぇよ」

 メイリアスの肩に手を伸ばしたダリウスを見て、ノーアは目を細めた。一日で二組もの恋人たちが婚約を交わすとは――。

 ノーアは扉へと向かって行きながら、あくび混じりに告げた。

「では、邪魔者は退散しますか。あとは若い方たちだけでどうぞ」

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