第35話 彼女の幸福
「あ、ギュスターだー」
ふいに名前を呼ばれて顔を上げると、クランベリー王女がこちらへ向かってくるのが見えた。
「ごきげんようー」
と、近寄ってきては、お決まりの気の抜けた挨拶をしてくる。ギュスターはそれまで考えていたすべてを振り払って、彼女へ返した。
「ごきげんよう、プリンセス・クランベリー」
彼女とは特別神衛部隊に配属されてから顔見知りになったのだが、いまだにギュスターはどこか堅苦しい貴族の挨拶に慣れないでいた。
「元気ないねー?」
クランベリーはお付きの侍女たちへ顔を向けると「ちょっと話したいから、待ってて」と、言いつけた。
そして立ち尽くすギュスターに視線を戻し、クランベリーは優しく笑う。
「ユーティアと喧嘩でもしたの?」
「いえ、別にそういうわけでは」
まったくその通りではなかったが、ほとんど図星に近かった。
複雑な顔になるギュスターを見て、クランベリーはその裾をきゅっと引っ張った。
「やっぱり、ユーティアのことなんでしょ? ぼくが相談に乗ってあげるよ」
地下牢に足音が響く。
一番奥まで進んでいくと、シルフは下へ目を向けた。
「あら、オード家の坊ちゃんが自ら来るなんて珍しい。また事情聴取かい?」
「特に用があってきたんじゃない」
両膝を抱えていたイズンは姿勢を変えることなく彼を見上げた。
「ああ、とうとう自覚したのね。それと同時に限界も来てる」
シルフはただイズンを見下ろしていた。
「だけど他の奴らには言えないから、あたしに会いにきた。ミスター・オード、残念だけどあたしには何もしてやれないよ」
イズンが普段と変わらぬ口調で言うと、シルフの身体が落ちるようにして檻へ寄りかかった。そして重いため息を一つつく。
「それくらい分かっている。俺が聞きたいのは――」
「彼女に今の自分が何をしてやれるか? ふん、知るはずないでしょ。あたしに聞く方が間違ってる」
檻が揺れる。
「彼女は何も気づいてくれない、仲間たちには言いたくない。でも、彼女の優しさと弱さが自分を傷つける……うらやましいね、宿り主のお嬢さんは」
シルフから目をそらし、暗い天井を見上げると、イズンは言った。
「あたしもそうなりたかったな。きっと彼女は、みんなに愛される存在なんでしょう?」
「でも、だから……っ」
何か言おうとして口を開くシルフを、イズンは
「まあ、そうだね。強いて言うなら綺麗さっぱりあきらめて、その想いを捨ててしまえばいいさ。それがあんたに出来るとは思えないけど、そうするのが誰も傷つけずに済む一番の方法だね」
床は冷たく、はめ込まれた魔宝石が鈍い輝きを放っている。
「あんたも本当はそれがいいと思っているんでしょう? なのに迷っている。何を迷う必要があるのか、あたしにはいまいち分かんないけどさ、彼女の幸福を願っているんだったら、そうするしかないよ」
それにあんた、もう大人だろ? ――両目を閉じたシルフの頬に、懐かしい温度が伝って落ちた。
「貴族の紳士なら、さっさとあきらめな。あたしは別にあんたがどんな結末を迎えたって、どうでも――」
「これほど心地いいと思ったのは初めてなんだ」
「……それで、今の関係を続けて行きたいと? なのに想いは捨てきれないわけだ。彼女に胸ときめかせられる毎日が楽しい?」
シルフが唇を噛む。イズンは微笑を浮かべる。
「所詮、恋なんてただの幻想でしかないんだ。相手を好きだと思っていても、それは自分がそう錯覚しているだけ。人間が本当に愛せるのは、自分だけなのよ」
イズンは立ち上がり、背を向けた彼へそっと手を伸ばした。
「いい夢を見たと思ってあきらめな。他にもあんたを夢中にさせてくれる女はいっぱいいる」
小さな冷たい手が震えていた大きな手に触れて、シルフはとっさにイズンを拒絶した。
怯えた表情でこちらへ体を向ける彼に、イズンはなおも手を伸ばす。
「あんたなら乗り越えられる。早く大事な事に気づきな、彼は盾だ。あんたがどんなに頑張っても、彼には勝てやしないよ」
そして細い腕に身体を捕らえられる前に、シルフは逃げ出した。
「シルフが、ユーティアを……で、でもユーティアはそんなことないよ!」
思いきり否定した少女にギュスターは少々驚いてしまった。
「だって、ユーティアはギュスターのこと大好きだもん!」
「ですがプリンセス。あの時彼女は、俺を必要としなかったんですよ」
「違うよ! きっとそうじゃない!」
なんて言ったらいいのか分かんないけど……と、クランベリーはうつむく。
ギュスターが小さく息をつくと、クランベリーはまた顔を上げた。
「大事な人だからこそ、心配かけたくないんだよ。ぼくだってそういう時、あるもの」
外見は少年でも中身は立派な女の子らしい。ユーティアの気持ちを必死に代弁しようとする彼女に、ギュスターは言った。
「そういうものなんでしょうか、俺には全然分からないです」
「うーん、たぶん……きっと、そういうことだと思うんだけど……」
クランベリーが唸り声を上げる。――やはり真相は自分で確かめない限り分からないのだろうか。
ギュスターがそう思った直後、クランベリーがひらめいた。
「そうだ。いっそのこと、求婚しちゃえば? そうしたら、ユーティアの気持ちがどうなっているのか分かるでしょ?」
突拍子のない提案に思わずギュスターはきょとんとしてしまう。
何も返さない彼に、クランベリーはにっこりと微笑んだ。
「きっとユーティアは喜ぶよ。でも、万が一断られたら……その時はご愁傷様」
と、クランベリーは苦笑した。
その考えは諸刃の剣のように思えたが、一番手っ取り早い方法でもある。
「……そうですね。思いきって、やってみます」
ようやく心の決まったギュスターは、先ほどよりも晴れた顔をしていた。
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