第33話 愛おしい女性の
「ユーティア!」
はっとして目の前を見ると、近くにあったはずの窓が遠ざかっていた。
「え……?」
そしてユーティアは、自分が廊下へ倒れていることに気がつく。シルフが自分を引きとめたことにも。
「いきなりどうしたんだよ、ユーティア」
シルフの息は上がっていた。
太陽が記憶よりも高い位置にある。すぐそこに窓があるというのに、ユーティアは呆然として何も言えなかった。
赤い装飾のされた廊下、見たことのない場所、町の喧騒が遠くに聞こえるところ。ユーティアはおもむろに上半身を起こした。
「……っ、わ、わたし」
自分が何をしようとしていたのか、ようやく思い出した。途端に涙がぼろぼろとあふれてきて止まらなくなる。
言葉にならない声を上げて泣き始める彼女を、シルフはそっと抱きしめた。
「ここ、四階だぞ。何があったのかは分からないけど、危ないことはするな」
と、背中を撫でられながら、ユーティアの冷静な思考はそれまでの事柄に整理をつけ始めた。
騒ぐ侍女や兵士たちをすり抜けて、ただひたすらに走っていた。心がうしろ向きな考えにはまりこんで、途中で見知った人に捕まえられそうになったけれど、それすらもすり抜けた。……今も周囲では、たくさんの人がわたしを見ている。
「しばらく何も考えるな。気が済むまで泣いておけ」
優しい声がそう言うので、ユーティアはすぐに思考を放棄して、その胸にすがった。
シルフの胸ですやすやと眠る彼女を、ギュスターは複雑な面持ちでながめていた。
「一件落着ですね」
と、ノーアがため息混じりにつぶやき、ダリウスも言う。
「きっと情緒不安定だったんでしょうね」
ユーティアの寝顔は安らかだった。もうその心が自分に向いていないのではないかと思うほど、安心しきった表情に見える。
シルフが立ち上がろうとして彼女を横抱きにすると、ダリウスがすぐにそれを補助した。しかしシルフは彼女の身体をダリウスへ預けてしまう。
「悪いが彼女を頼む。どうやら足をくじいたらしい」
「マジかよ、了解」
ダリウスに抱かれた彼女がわずかに表情を歪めて見えた。口元がかすかに動き、ギュスターはそれを凝視する。しかし、彼女の口元からは何も読みとれなかった。
部屋へ向かう二人を追ってギュスターが向きを変えると、右足をかばいながらシルフが横を通り過ぎていった。
『どうしてギュスターはわたしを愛してくれないの――?』
今まで自分は彼女に何をしてやれた? 後悔と不安で、手の平に汗がにじんだ。
室内は静まっていた。ユーティアが目を覚まし、ギュスターはいち早くそれに気がつく。
「……ごめんなさい」
小さな声がそう言い、ギュスターは椅子を立った。
彼女のそばへ寄ると、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「本当にごめんなさい、わたし……わたし、何しようとして――」
ギュスターはその頬へ手を伸ばす。
「もう気にするな、ユーティア。謝ることはない」
すべての物に優しくしてしまうユーティアだから、ストレスを限界まで溜めてしまったのだろう。しかし、次に彼女の発した言葉は、彼の想いを裏切るものだった。
「……シルフさんと、二人きりにさせて」
雪崩のように不安が募る。やはり彼女は、もう自分のことなど……。
「ギュスター」
シルフが目で従えと言う。
半ば放心状態のギュスターをダリウスが無理やり連れて行く。――彼女の心変わりなんて、信じたくなかった。
シルフはただ天井を見つめる彼女へ近づき、ベッドの端に腰を下ろした。
「さっきは、ありがとうございました」
と、落ち着いた声でユーティアが言う。この状況が何を示しているのか理解しかねていたシルフは、何も返さなかった。
「わたし、飛び降りるところでした。本当はそんなこと、したくないのに」
シルフは床を見つめていた。
「どうしてでしょう。わたし、不満なんてないのに。今の生活は楽しいし、わたしはみんなに守られていればいいのに。わたし……、闇魔法の人たちを可哀想だと思ってしまいました。最高神が宿っているわたしを狙ったせいで、牢屋に入れられて、すごく不幸な人たちだと」
「……傲慢だな」
「ええ。わたしも今では、そう思います」
「じゃあ、どうしてあんなことを?」
ユーティアは一つ息をつくと、静かな声で言った。
「あんまり、自分でもよく分かりません。けど……すごく、寂しくて。独りぼっちのような気がして、そうしたらなんだか、すべてが怖くなって……」
「すぐ近くには俺たちがいるだろう? ギュスターだって」
言葉にしながらシルフは苦い気持ちを覚える。心はやはり、嘘をつけずにいた。
ユーティアはゆっくりとうなずいた。
「分かってます。でも、わたしは彼の……ギュスターの、荷物になってるんじゃないかって」
彼女の気持ちは依然としてギュスターに向いていた。
シルフはため息で想いを隠し、彼女へ言った。
「そんなわけがないだろう。不安になるのは分からなくもないが、信じてここにいてくれればいい」
「……はい」
「今はゆっくり休んだ方がいい。くれぐれも変なことは考えるな」
彼女が目を閉じる。
うわごとのように「ごめんなさい……もっとわたし、大人になりたい」と、言い残して。
やがて整った寝息が聞こえて来た頃、シルフはユーティアを振り返った。あどけなさを残す純粋な少女の寝顔、優しさを灯すやわらかな……愛おしい女性の。
「……」
触れてはいけないと分かっていた裏で、二人きりでいるこの状況を上手く使えと、もう一人の自分がささやく。触れられるのは今しかない、誰も自分を見ていない、目の前にいるのは紛れもない彼女。
頭では理解していたはずなのに、手が勝手に伸びていた。白い頬に触れ、そっと撫でる。
彼女の口が
――こんな自分は、彼女に何をしてやれるのだろう?
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