第26話 穏やかな時間
自分が一般的な人間でないことは理解しているつもりだった。しかし、あらためて自分自身に向き合ってみると、どうしても前向きにはなれない。
最高神のこと、女神のこと、闇魔法のこと。考える事柄が多すぎて、何も考えたくなくなる。けれども思考は心を無視して働き続ける。
「ユーティア? そろそろ上がらないとのぼせるわよ」
扉の向こう側で、メイリアスがユーティアを気遣ってそう言った。ユーティアは「うん」と、小さく返事したきり、浴槽から身体を出そうとしない。
手の平にすくった熱い水がゆらゆらと揺れている。それを水面から浮かせると、するすると手からこぼれて落ちていった。――わたしの中にある光も、水のようにたやすく闇に落ちてしまうのかしら。
「ねぇ、ユーティア。明日は満月よ。あたしが話をつけてあげるから、一緒に見に行かない? お城の上の階に、夜空がよく見える場所があるの」
蒸気の満ちた浴室にメイリアスの声が響く。
「あなたにはペンダントがあるから、少しの時間ならきっと許されるはずよ」
――そのペンダントすらもいつかは無力になってしまう気がして怖くなった。
ふと右腿のあざをかきむしりたい衝動に駆られたが、思い留まる。そんなことをしてもあざは消えないし、自分の中にはすでに最高神が宿っているのだ。今さら変えられる現実など、どこにも存在しない。
「……聞いてる、ユーティア?」
扉を叩く音がしてユーティアは我に返った。
「え、ええ、聞いてるわ」
慌ててそう返すと、扉の向こうでメイリアスが呆れた風にため息をつくのが分かった。
「もう、とりあえず上がりなさい。のぼせちゃう前に」
と、扉を開けて顔をのぞかせるメイリアス。
「あ、うん。すぐ上がるわ、だから大丈夫っ」
手振りでメイリアスの仕事を止めさせ、ユーティアは彼女がまた扉の向こうへ消えるのを待って浴槽を出た。
頭が少し熱っぽくなっていた。水滴を散らしながら着替えを終えるまで、ユーティアはまた思考がうしろ向きになっていくのを感じた。
――きっと気分転換が必要なんだわ。そう、何もない毎日に飽きないはずがないもの。
「明日の満月、見に行くわ」
そう言いながら扉を開けると、メイリアスが少し意外そうな顔をしていた。
外出を禁止されたユーティアを気遣ってか、クランベリーが部屋を訪れた。
「ユーティア、ごきげんようー」
いつもの口調で挨拶するクランベリーに、ユーティアはにっこりと微笑む。
「ごきげんよう、プリンセス・クランベリー」
ノーアとダリウスはそれぞれに彼女たちを見守っていた。
すぐさまクランベリーは読書をしていたユーティアに近づき、それを横からのぞき込む。
「何の本読んでるの?」
「光魔法に関する本です。シルフさんが貸してくださいました」
「へぇ、そっかー」
クランベリーは納得した様子で相槌を打つと、ユーティアへ言った。
「そんなことより遊ぼうよ! 今日はぼく、たくさんおもちゃを持ってきたんだー」
と、付き添いの侍女が抱えた袋を指差す。
「おもちゃ、ですか?」
ユーティアはすぐに本を閉じると立ち上がった。クランベリーが侍女から袋を取り上げて床へ座り込み、中身を出していく。
「これが昔お父様にもらったお人形で、これが新しい鉄道模型でしょー、それでこれがぼくの宝物の――」
クランベリーの隣に座りこんだユーティアは、初めて見るおもちゃの数々に早くも心を奪われていた。端正な顔立ちの少女の人形を手にとり、まじまじとながめる。
「ノーア、もしプリンセスが密偵だった場合、あのおもちゃには何か意図がありますよね」
ふとつぶやくように言ったダリウスに、ノーアは視線を向けた。
「一人を疑い出したらきりがありませんよ。あまり疑心暗鬼にならないでください」
ダリウスは黙ったがその疑いが消えることはなく、ただ二人は複雑な気持ちで楽しそうに遊ぶ少女たちを見つめていた。
ユーティアの、普段他人には見せない子どもっぽさがありありとさらされている。金髪碧眼の人形の服を脱がして、別の服を着させる。それを見てクランベリーも笑った。
「まるで姉妹のようですね、あんなに楽しそうな彼女を見るのは初めてです」
「まあ、確かに。でもあれは姉妹というか、むしろ一緒に遊んでますね」
そんな彼女たちをながめていると、今自分たちの直面している危機が、夢か何かに思えてくる。目の前にある穏やかな時間がいつまでも続けばいいと、その場にいた誰もが考えてしまうほどに。
「もしオレたちが負けたら、彼女を失うかもしれないんだな……現実から逃げたくなるよ」
小さすぎる声だった。
ダリウスの言葉を聞き取れずとも、それの意図するものを感じてノーアは言い返す。
「みんな同じ気持ちですよ。一番辛いのは当人でしょうが、ギュスターもまた、大変辛い思いをしているはずです」
それはきっと、ユーティアの心安らげる数少ない時間でもあった。だからこそ、なおさら強く願ってしまう。――どうか、普通の少女に平和な人生を。
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