第5章 喪失
北村は自宅に戻り、由美の部屋に残された僅かな手がかりを基に、彼女の内面に潜む絶望と孤独に触れながら、少しずつ真相へと近づいていた。
部屋は淡い光が差し込み、何の変哲もない一室だったが、その静寂の中に、由美の叫びが滲んで広がる。
あの机の上に残された未送信のメール、薄く色褪せた日記のページには彼女の深い悩みも記されていた。
由美の文章や文字は、美しく整然としているが、その端々に見え隠れする迷いや躊躇が、彼女の心の乱れを物語っている。
-母は私を縛り続ける。愛しているのか、それとも憎んでいるのか。どちらなのか、もうわからない
北村はその一行を人差し指でそっと撫でながら、彼女が抱えていた葛藤を痛く感じた。
そして、由美が密かにカフェで会っていた人物の存在が浮かび上がる。その名前は、あの店で働くパティシエ、佐藤の知り合いの高木だった。
あの時、北村にケーキ店で母・恵子の裏の顔を語ってくれた常連客だ。
北村はその男にアポを取り付け、近くの公園で話す機会を設ける事になった。
雨が降る中、高木の元へと向かう足取りは重く、心に渦巻くのは果たしてこの出会いが何をもたらすのかという漠然とした不安。
「北村さん、お久しぶりです」
「やっぱり、込み入ったお話だと思うので近くのカフェで話しましょうか」
高木は笑みを浮かべながらそう話すと、水森のカフェへ二人で向かった。
五分ほどで到着して店内隅奥の席に座る。
高木の目は、喫茶店のライトが反射して不自然な光がユラユラと揺れている。
「由美さんに何があったか、あなたは知っていますね?」
高木は一瞬の沈黙の後、小さく笑った。その笑みは冷たく、少し気味が悪かった。
「あのパティシエの佐藤さんが全部、仕組んでいたんだよ。彼は由美さんをとても愛していた。でも、同時に凄く嫉妬していたんだ。彼女が母親から離れて自由になろうとする事が、許せなかったって」
高木は淡々と語り始めた。
「彼女が落ち込んでいたら、お母さんとキチンと話し合いの場を設けて関係を修復した方が良い」
「今日も話さなかったの?きちんと話した方がいいよ。生きていく為にはお母さんが私には必要だって」
「彼はそんな事ばっかり言っていたんだよ。由美さんに。毎日毎日。会う日も会う日も」
そうだったのか、漸く腑に落ちた。
佐藤は表向き、穏やかで親切な職人だ。
しかし、彼の心の中には愛情が多過ぎるあまり抑えきれない嫉妬と支配欲がとめどなく溢れ、由美が少しでも母親の呪縛から抜け出そうとするたび、その自由を奪おうとした。
佐藤は、母親の過干渉に苦しむ由美を助けるフリをしながら話をし、実際には彼女をさらに追い詰め、自分に気持ちが向かうように心をコントロールしていたのだ。
胸の奥が冷え切った。
由美の死は、ただの偶然ではなく、周到に計画された悲劇。彼女の母親によって作り出された孤独と苦悩は、佐藤によって増幅され、
最終的に彼女を死へと追いやったのだ。
しかし、真実が明らかになっても、由美の命は戻らない。事の重さを痛感しながら、北村は静かに立ち上がる。
瞳に映る景色は、どこまでも灰色だった。
-
「というのが一連の由美さんが自殺に至った経緯です」
北村は恵子に伝えた。その事実を知った母親の恵子は俯き、何も言わない。
これまで、愛するが故にと娘を支配しようとしていたが、その行為こそが娘を追い詰めた原因であったと理解した瞬間、恵子は茫然と過去の自分の行いを思い返す。
あまりにも深い悲しみと娘に課した過干渉が、由美の心を締め付け、最終的には命までも奪った。
愛は、時に毒にもなり得る。あまりにも苦い真実が、恵子の胸を鋭く何度も刺し続ける。
「親子って一番近くて一番遠いんですよ。どう適切な距離をとって深い関係値を築いていくかで決まるんです。その距離の取り方が恵子さんは少し下手だったのかも知れませんね」
北村はそう言葉を残し、ケーキ店を後にした。
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