第3章 ショートケーキ
後日、北村が山岸家のケーキ店に再び足を踏み入れた時、漂うバニラと砂糖の甘い香り、果実の甘酸っぱい香りが瞬間的に彼全体を包み込んだ。
カウンターには赤い苺がのったショートケーキが特段に目を惹く。
その一見魅力的な店内の光景は、北村の鋭い観察眼からすれば、どこか薄暗い雰囲気を助長させるものでしかない。
従業員たちが流れるように作業をこなす姿はまさにプロといった感じ。
北村はその動きの中に緊張感を感じ取った。
言葉数は少なく、作業の合間にも目配せ一つしない。まるで、何かに見張られ、恐れるかのようだ。
その沈黙は、長く続けられてきたこの店のルールに縛られたものなのか、それとももっと個人的な何かに縛られているのか、北村にはすぐには分からなかった。
カウンターの奥にいた佐藤は、北村の視線に気づくと一瞬だけ視線を合わせ、すぐに目を逸らす。
彼の表情は落ち着いていたが、その奥には言葉に出来ない何かが隠されているような気がした。
「佐藤さん、少しお話を伺ってもよろしいですか?」
北村がそう切り出すと、佐藤は一瞬身を強張らせた後、静かに頷く。
「少し、外に出ましょう」
ケーキ店の賑やかな喧騒を後にして、二人は店の裏手にある小さなベンチに腰を下ろす。
冷たい風が二人の間を通り抜け、佐藤の白いコックコートをパタパタと揺らした。
「由美さんの事、何か知っていることがあれば教えてほしいんです。彼女は店ではどんな感じだったんでしょう?」
北村の言葉に、佐藤はしばらく沈黙を保った。空を見上げ、吐き出す息が白く曇る。口を開くまでに、また一つ息を吸い込む。
「彼女は…不器用な人です。真面目で、誠実でしたが、それ以上に…孤独な人だったように思うんです」
佐藤の声は、悲しく、優しさが滲んでいた。
その声には、彼が由美に特別な感情を抱いていたことが、北村にも明白だった。
「お母さんとの関係も、…かなり厳しかったんですよね?」
北村の質問に、佐藤は考えに耽るように目を伏せる。表情にわずかな動揺が走り、口を開くのに躊躇いが見える。
「ええ、彼女は、お母さんに対して強い反抗心を抱いていたと思います。お母さんは店にかける情熱が強すぎて、時にそれが周りを圧迫するように感じました。由美さんはその圧力に長年苦しんでいたと思います」
彼の言葉には重さがあった。北村はその言葉を受け取りながら、由美が計り知れない孤独と葛藤を抱えていたかを想像する。
「あなたは彼女に対して特別な感情を抱いていたんですね?」
北村は核心に迫る質問を投げかけた。佐藤は驚いたように顔を上げ、しばらく言葉を探すように目を彷徨わせた。
「…そうです。由美さんは、私にとって特別な存在でした。でも、その気持ちを彼女に伝えることは出来ませんでした。彼女は、いつも母親に縛られていたんです。母親は彼女の人生をすべて支配していました」
拓也の声は震えていた。
その震えは、自分が感じていた無力さに対するものなのか、それとも由美への未練に対するものなのか、北村には区別がつかない。
しかし、そこには深い感情が込められているのは明確に分かった。
北村が話を終え店に戻ると、次に彼を待っていたのは店の常連客や近隣住民たちだ。
表向き彼らは恵子を慕っているように見える。彼女は完璧なケーキ作りの技術を持ち、店は常に繁盛していた。
しかし、その裏で北村が耳にする噂は異なっていた。
「恵子さんは確かに腕のいいケーキ職人だよ。だけど彼女は娘にも従業員にも厳しすぎた。それをこっちが感じ取れてしまうほど」
「表向きは優しいけれど、店の中ではまるで別人だったよ。特に娘さんに対しては、言動や目線が怖くってね、やりすぎなんじゃないかと思う時があったよ」
近隣の人々は口を揃えてそう話し始めた。
彼らが語る「完璧な母親」は、同時に厳しく支配的な姿を持つ二面性を持っていたのだ。
由美に対する母の期待は、いつしか愛情の枠を超え、押し付けへと変わった。その重圧に由美がどれほど耐えてきたのか、彼女の心にどれほどの傷を刻んだのだろうか。
北村の中で、その思いが次第に浮かび上がってきた。
由美の死の真相に迫るにつれ、北村の心に一つの問いが膨らんだ。
「彼女は自ら命を絶ったのか、それとも…」
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