第2章 確執

 由美の記憶には、甘いバターの香りとケーキの焼ける音が、幼少期からずっと染みついている。


 店のキッチンは彼女にとって遊び場でもあり、避けることの出来ない運命の場でもあった。


 恵子は一心にケーキ作りに情熱を注ぎ、その姿を背中で見せながら、幼い由美に何度も繰り返す。



「由美、あなたが絶対に私の後を継いで、この店を守っていくの」



 母の言葉には揺るがない確信があった。


 その言葉は、やがて由美の心に深く染み込み、彼女自身の将来像を曇らせていく。


 最初は母が期待していることが分からなかった。母のために一生懸命頑張れば、努力をすれば、愛を受けられると信じていた。


 しかし、時間が経つにつれて、期待は次第に圧力へと姿を変えていく。



「由美、こんな小さな事もできないの?」


「私の娘なら、もっと完璧にできるでしょう?」



 繰り返されるその言葉は、鼻に残る甘いケーキの香りとは裏腹に、彼女の心に濃度の高い苦みを残す。


 由美は、中学を卒業する頃にはもう自分が母の望む店の後継者になる重圧に耐えられなくなっていた。


 ケーキ作りは決して嫌いではなかったが、それが自分の未来になるとは思えなかった。由美は自分の人生を見つけたかった。何か別の道で、存在価値を見つけたい。そう思った。


 しかし、母はその望みを永遠に許す事は無かった。


 高校卒業後、由美は家を出て、別の職に就こう。そう決心する。


 それを聞かされた恵子の反応は冷たく、厳しいものだった。



「何を考えているの?ケーキ店を継がないなんて許されると思っているの?あなたはこの家の娘でしょう!何の為に産んだんだか」



 衝撃が走る。由美の心に抜けないほど深く刺さった棘。


 彼女は自分の選択を疑い始めた。母の期待に背くことは、娘としての自分が否定されるのではないか。


 幾度となく一人の部屋で涙を流しながら、彼女は母の言葉を理解しようとして、自分を守る、それを繰り返した。


 自分が決めたなりたい人生を生きたいのに。母の道具ではないのに。


 と、彼女はまた言い聞かせる。


 その対立が激しくなればなる程、彼女はひとり檻の中に閉じ込められているような気がした。


 家業を手伝うことを拒もうとする由美は、毎日のように母からの怒りに晒され、家の中には常に張り詰めた空気が漂う。


 母の鋭い眼と大望の圧は彼女の心に重くのしかかる。逃げ場がなかった。



 "お前は私を常に失望させる"



 彼女が手に取る仕事、選ぶ道、全てが母の目には失敗に映る。そして、そのたびに由美の心は大きく削られていくのだ。



「由美は無理だわ。結局、何をやっても成功しないの、私のように努力しないと何にも手に入らない そういうものなの」



 母が繰り返す言葉は、由美の心にどれだけの負荷を掛けたのだろう。


 それが本当に事実なのか、それとも母が言っているだけなのか、由美にはもうその境目を見失っていた。ただ、心の中で何かが終わってしまう音がパンッと弾ける。


 いつしか彼女は、自分が何を望んでいるのかさえ分からなり、母に耐えることや抵抗が次第に出来なくなっていた。


 自分の意志を貫こうとするたび、母が自分なりの努力を無駄にしてしまう。


 今までも、これから先もその重荷を背負って生きる事しか自分には出来ないのだと、思い込んでいた。


 一方で、母の店で働くパティシエの佐藤拓也だけが、彼女の心の変化を感じ取っていた。


 由美が何も語らないにもかかわらず、彼女の沈黙が何を意味しているのか、彼だけが理解した。拓也は密かに彼女に特別な感情を抱いていたが、その優しさも彼女の心を救うことは出来なかった。


 由美の孤立は修復方法を知らず、母との確執は決定的なものとなっていく。


 そして、彼女は母の支配から逃れるために、最も悲劇的な選択を取ることになるのだ。

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