ショートケーキシンフォニア
翡翠
第1章 疑い
山岸由美の死は、ひっそりと、誰にも気づかれぬまま終わりを迎え、この世の中から消えていった。
表向きには自殺とされた彼女の死だが、どこか説明のつかない違和感のような物が心に残る。
それは、彼女を知る者たちの胸に広がる、言葉にできない疑念だった。
北村晴夫がその疑念を抱くきっかけとなったのは由美の親友、小林理沙からの一通の連絡だ。
理沙の声は悲しみで震えていた。
「由美が…あの子がこんな形で終わるはずがない」
彼女の声には深い悲しみと共に、揺るぎない確信が込められていた。
北村はその言葉に、ある種の不穏さを感じた。理沙が語る彼女の生前の様子は、北村が想像していたものと大きく異なるものだったのだ。
明るく笑顔を絶やさない印象を抱いていた由美が、実際には長年にわたり孤独と心の重荷に耐え続けていたという事実を初めて知る。
特に、母の山岸恵子の存在が彼女の苦しみの根源であることを。
「由美は、いつもお母さんに怯えていた」
と理沙は語る。
恵子はケーキ店を営みながら、娘に理想を押し付けることが生きがいであり、自分を守る盾だった。
彼女の視線は鋭く、常に由美の一挙一動を監視し、少しでも自分の期待に応えられないと見ると冷たく突き放す。
由美はその重圧に押し潰されるようにして、徐々に笑顔を失っていき、それでも彼女は外では何事もないかのように振る舞った。
店の手伝いで表に立つ時も、客の前では決して弱音を吐く事はない。
ケーキを包む手つきは丁寧で、笑顔で接客をするその姿には、ホスピタリティーを感じられたようだ。
しかし、店の扉が閉まり、母と二人きりになると、全て剥がれ落ちる。
「このケーキが、この店が、私の全て。その意味を由美、あなたも理解しているのよね?」
母の期待に応えられない罪悪感が、由美の心に深く根を張り、抜け出せない地獄へと彼女を誘う。
由美は、キチンとした真っ直ぐな母の愛を求め続けながら、そこに救いを見出せずに苦しみ、共有できるのは、ただ一人、理沙だけだった。
「どうして私は母の期待に応えられないの?」
由美は生前、理沙にそう何度も問いかけていた。彼女の声には、自らの無力さに対する怒りと、誰かに救いを求める叫びが混在している。
理沙はそんな由美を、そっと抱きしめることしかできなかった。
「由美、十分だよ。私たちにはそれぞれ違う生き方がある。この店とお母さんだけが由美の価値を決めるんじゃない」
しかし、理沙の言葉は由美の心の奥には届く事は無かった。
母が誘う地獄はあまりにも深く、あまりにも暗い。北村は理沙の話を聞きながら、彼女が抱える悲しみと無力感を感じ取る。
だが、心の中にはそれ以上に強い疑念が芽生え始めた。由美が自ら命を絶ったというその事実に、何か見過ごされている真実が隠されているのではないか?
「彼女の死について、もっと知る必要がありますね」
と北村はメモにペンを踊らせながら言った。理沙はただ静かに頷く。
「お願いします。由美が何故こんなことになってしまったのか…真実が知りたいんです」
この冷静な目が、すでに幾度となく目にしてきた人の闇を探り始める。
北村が初めて山岸家のケーキ店を訪れたとき、その外観は陽だまりのようだった。
外壁には控えめに飾られた花があり、ガラス越しに見えるショーケースには、美しく飾られたケーキが並んでいる。
だが、彼の鋭い目には、その完璧さの中に潜む違和感がはっきりと映っていた。
恵子が店の奥から現れる。彼女は微笑みながらも、その瞳には娘を亡くしたとは思えないほどの冷静さがある。
「うちのケーキ、美味しいんですよ」
彼女の声は、長年店を仕切ってきた人間の確信に満ちたものだ。
「すみません、由美さんのことについて、少しお話を伺いたくて参りました」
と北村が話を切り出すと、恵子の表情が微かに曇る。事なくしてすぐに取り繕うようにして答えた。
「娘のことですか。あの子は本当に繊細で…でも、最後は自分で選んだんです。あの子が望んでいたことなんですよ」
その言葉には、愛情よりもむしろ惨さが感じられた。
由美の死についての説明が、母親としてあまりにもサッパリしていて簡潔すぎる、と北村は直感的に思う。
"感じた違和感は間違いではない"と北村の中で警鐘が鳴った。
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