掌中の珠

日は流れ、二月の半ばを迎えた。

数日前、悠の経過は問題なく、無事に退院することが出来たのだ。


今日は久し振りに自宅のマンションで響と過ごすことになっている。

本当は学校まで迎えに行きたかったが、退院したばかりだからと響に反対されてしまった。

しかし、響を一人で来させるのは忍びない。

折衷案として、自宅の最寄り駅の前で待ち合わせすることとなった。


長いこと講義を休んでしまい、これからは大学は忙しくなる。

その前に響と過ごして充電しておきたかった。


駅の前で響がやって来るのを今か今かと待っていると、改札を出る響が見えた。

病室にやって来た時と同じように、ダッフルコートを羽織り、マフラーを巻いた格好だ。

響は悠を見つけるなり駆け出した。


「待たせてごめんね」

「さっき来たばかりだから、そんなに待ってないよ」


どちらともなく恋人繋ぎをすると、とりとめのない話をしながら、悠の自宅へ向かって行った。


自宅に着き、リビングに入ると、


「悠くん、ちょっとお願いがあるの」


響は神妙な顔付きをしていた。


「どうしたの?」


盗聴で聞く限りでは、変わったことがあったようには思えなかったが。


響はおもむろにリュックの中身を探り、三通の封筒を取り出した。


「今朝、靴箱にこの手紙が入っていたの。なんて書かれているか怖くてまだ開けてないんだ……代わりに見て欲しい……」


響は、早速悠に頼ってくれた。好きな女の子に頼られるのは、男冥利に尽きるものだ。


「いいよ」


響はずっと不安を抱えて過ごしていたことだろう。その不安を取り除いてあげるのは彼氏の務めだ。


早速、響から受け取った手紙の封をペーパーナイフで切って取り出して見れば、中身は恋文だった。

内容は三通全てを共通していた。表立っては言えなかったけど、爪弾きされていた頃からずっと、美しく可憐な響に密かに憧れていたようだ。


嫌がらせの矛先が、月見里の従妹である桐谷真菜に変わり、響に辛く当たる者は減っていった。

その代わりに響に好意を向ける害虫が表に現れてしまったという訳だ。


その状況に変えたのは、図らずも悠自身だった。なんと皮肉な話だろうか。うっかり月見里に刺されたあの頃の自分を心底恨む。

零れそうな嘆息を飲み込み、響への好意が綴られた便箋を半分に折りたたんだ。


(響に好意を抱く男は、この世に存在しない。その事実はこれからも変わらない)


他の男の響への好意は隠蔽して、闇に葬ってしまおう。


「なにか書いてあった……?」

「響は読まない方がいい……」


悠の言葉からネガティブな内容を予想したのか、響の瞳が悲しげに揺れた。

その手紙は響の手に渡ることはなく、細かく破ってゴミ箱に棄てた。


(響が害虫に穢されることのないように、始末してしまおう) 


破り捨てる前に把握した差出人の名前を、心の中で暗唱しながら、その者達の排除の決行を思案した。


「またこんな手紙が入っていたら読まずに俺に渡して? 代わりに処分してあげるから」

「ありがとう……」

「響の不安を取り除くのは、彼氏の役目だからね」


(もっと、俺に依存してね……その分沢山愛してあげるから)


手紙を棄ててからは、響の憂いた表情は、少し晴れやかなものになった。




「悠くんにお菓子作ったの。今日は十四日だから……受け取ってくださいっ」


響は頬を染めて、緊張した面持ちでラッピングされた紙袋を悠に差し出した。

中には小さなホールケーキを入れる箱が入ってた。


「今日バレンタインなんだ」


今気付いたかのように装っているが、本当は柄にもなく楽しみでそわそわしていた。


「ガトーショコラにしてみたんだ」

「ありがとう。早速食べていい?」

「どうぞ」

「お茶淹れるね。響も一緒に食べよう」

「うんっ」


悠はソファーから立ち上がると、キッチンへ足を運んだ。




「どうかな……」


リビングのテーブルにあるのは、カットしたガトーショコラだった。

悠はそれをフォークで味わっていた。


その様子を窺っている響の瞳は不安げだ。


(心配しなくても大丈夫。どんなに不味いものだろうが、美味しく食べてあげるから)


例え物体Xだろうが、響が自分のために作ってくれたものは余すことなく胃に収めてかてにしてやろう。


「美味しいよ。甘さ加減も絶妙だよ」


実際に響の作ったお菓子は、相変わらずの絶品だったけれど。


「お口に合ってよかった……」


響は余程安心したのか、猫目を細めて眩しいくらいの笑顔を見せた。


「不安にならなくても、響の作ったものは全部美味しいから」

「だって、本命チョコをあげたの、悠くんが初めてだから……」

「そうなの?」


知っている事柄だが、目を丸くさせて意外そうな顔を作って見せた。


「全部、悠くんが初めてなの」


響のはにかみながら告げたその言葉だけで、害虫駆除に力を尽くした甲斐があるものだ。

記憶を失って再会するまでの間、響は誰も好きにならないでいてくれた。


「嬉しいよ」


響は寄り添って、ぎゅっと腰に腕を回してしがみついている。

甘える響が狂おしいほど愛おしくて、髪、額、瞼に触れるだけの口付けを落としていった。


「悠くんに会えない間、寂しくて死にそうだった。またこうやっていられて幸せなの」


白魚のような手のひらが、悠の頬を包む。

ひんやりとした感覚に、思わず目を閉ざすと同時に、唇に柔らかいものが触れた。


瞼を開けると、湯気が出てもおかしくない程頬を染めて、潤んだ瞳を真っ直ぐ向ける響の顔があった。


初めての響からの口付けに、悠の意識は遥か遠い所へ飛ばされた。

初々しい口付けだが、容易に悠の理性を壊しにかかる威力がある。


(冷静でいられない。無性に響を食べてしまいたい。でも、響を怖がらせたくない……)


心の中で葛藤をしていると、


「やっぱり……」


耳に届いた鈴を転がしたような声で、我に返り、平静に装うことが出来た。


「……飽きるまでの間なんて無理。私じゃない人とこういうことするの嫌。ずっと私の傍にいて」


響の切実な願いは、悠の胸の中を滾らせていく。独占欲を露わにした響を見ていると、窒息する程、体が軋むほど抱き締めたくなってしまう。


「私の気持ちって、重いよね……」


そう呟いた響は、寂しげに微笑んでいた。


「周りから見たらそう思うかもね」


悠の言葉に、響は目を見張った。顔にショックを受けました、と書いてある。


「ごめんね……やっぱり、私は────」

「だけど、俺はその重さが心地良いよ」


一度突き落として、引き上げてあげる。


「……いいの?」

「響の気持ちはどんなものでも嬉しいよ……だから隠そうとしないでね?」

「うん……」


安堵したのか瞳を潤ませている。

悠はそんな響の濡れ羽色の髪に、優しく口付けを落とした。


「こんな私を受け止めてくれる人は、どこ探しても悠くんしかいないよ」


(そうだよ。響の気持ちを受け止めてあげられるのは、俺しかいない)


響は、悠の理想通りの依存性が強い子になってくれた。


「響が思っているより、俺も響が狂いそうなくらい好きだよ」


(もうとっくの昔から狂っているけど)


定期入れを届けてくれた響を一目見た瞬間から、心を奪われて這い上がれない所まで堕とされた。


「私も……どんな悠くんでも大好きだよ」


目を細めて破顔した響の唇を塞いだ。

舌を迎え入れるようにわずかに口を開ける響が可愛い。


「んっ、はぁ」


零れる甘い声に、悠の血は滾ってきた。


響は既に息が上がっており、ぐったりしているが、解放してあげる気は全くない。


「甘い……」


さっき食べたガトーショコラの甘さは、まるで媚薬のように二人を酔いしれさせ、狂わせる。


理性が砕け始めているのを自覚しながら、響をソファーの上に押し倒した。


身に付けていたカーディガンを脱がし、ソファーの背もたれに掛ける

ネクタイを緩め、シャツのボタンを三つ外していくと、白磁の肌が露わになった。


「すっかり消えたね」


鎖骨に唇を這わせると、響は瞼をぎゅっと閉ざして何かに耐えていた。


鎖骨、首筋をきつく吸うと、背中に回る細腕に力が込められる。

綺麗に付いた赤に、口角が勝手に上がってしまう。


耳のラインに沿って舌を這わせ、やんわりと噛むと、響の体がびくりと跳ね上がった。


響の瞳から一筋の涙が頬を伝い落ちた。


「はぁ、悠くんに触られると、んっ、お腹の下、変になるの……っ」


孤立されて友人のいない響は、保健体育で習った程度の性の知識しか持ち合わせていない。

無垢な響は、体の熱を鎮める方法を知らないのだ。


同性の友人を持つことも赦さなかった理由わけは他にもあった。他の女の経験話じゃなく、直接自分の言葉で教え込みたかった。

自分の色に染まる時が来るまでは、真っ白でいて欲しかったのだ。


「楽になりたい?」


響は今にも泣きそうな顔をさせて大きく二、三度頷いた。


「でも、どうやって……?」

「俺が教えてあげるよ」


射抜くようにな眼差しを響に向けると、不安げな顔に異性を誘うような色香が滲みだした。





睦み合うひと時は悠にとって至福であった。初めて知る刺激に戸惑いながら翻弄される響の姿はずっと眺めていたいほど魅惑的だった。


悠は自分を止められなくて、無理だとぐずりながら限界を訴える響を無視して何度も触れた。よく一線を越えずに抑えられたものだと感心してしまう。


響は悠が与える刺激に耐えられなくなったのか、気絶したかのように深い眠りに就いた。

微動だにしない響は、まるで電池の切れたおもちゃのようだ。


上気した頬、涙で濡れた長い睫毛、薄紅色の唇から洩れる吐息。

初々しいのに、どこか妖艶で、油断すると理性が塵となってしまいそうだ。


悠は乱れた制服を整えてあげた。

それでも、響は目を覚まそうとしないので、抱き上げて寝室へ運ぶべくリビングを後にした。





「ん……っ」


一時間が経過する寸前、響はゆっくりと瞼を開けた。

とろんとした寝ぼけ眼は無防備で、先程の妖艶さはなりを潜め、愛らしさしかない。


視線が重なると、響は目を見張り、突然悠の腕を引いて、キツくしがみついた。


「やだ、いかないで……っ、」

「響、」

「たまきおねえさまの、ところにっ、いかないで……っ」


響の口から出た、元カノの名前に目を見張る。


(本当は覚えていたのか?)


しかし、確証は得られない。

普段は覚えていないけれど、記憶の奥底で眠っているだけかもしれない。


(もし、覚えていたとしたら、響はずっと俺を)


逸る気持ちを抑え込み、夢うつつの狭間にいる響の肩を揺さぶり、名前を呼び続けた。


ようやく目覚めた響の瞳は、しっかりと悠を捉えていた。


「悠、くん……私……」

「怖い夢でも見た?」

「内容は覚えてないけど、嫌な気分だった……」


背中に回った細腕に力が入る。


「ごめんね。寝ぼけて変なことして……」

「響が謝ることはないよ。落ち着くまでこうしててあげるから」


華奢な体躯を優しく抱き締めて、背中を優しく叩く。


「悠くんって、体温高い方?」

「低い方だよ」

「でも、悠くんの腕の中は、すごく温かいよ。安心する……」


悠は響と離れたくなくて、抱き締める腕に力を込めた。


本当は真相を知りたくて堪らなかったが、悠はあえて触れないことにした。


本当に響が自分を忘れないでいてくれたとしたら、きっと、我を失って響の全てを奪い去ってしまいそうだから。

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