貴方のいない世界が想像出来なくて
響視点
夜眠る前、響はベッドの上で赤い鍵付きの日記帳を手にしていた。
小さな鍵で開けて、ページを捲る。
十月×日。
由加と映画を観に出かけた。
映画を観終えた帰りに寄ったファミレスで、あの人が彼女といるところを見かけた。
彼女は、姉のように慕っている環お姉さまだった。
お姫様みたいに可憐なお姉さまとあの人は、とてもお似合いだ。
子どものあたしは相手にされないと、分かっていたけれど、目の前で突き付けられると、胸が痛い。
これが失恋の傷みなんだ……。
◇
十一月〇日。
あたしは失恋した次の朝に、駅の階段から転落してケガをしたらしい。
意識を失っている間にあたしは十二歳の誕生日を迎えていた。
あの人は、駅のホームに来ないあたしを気にかけてくれるだろうか。スマートフォンがあれば、連絡を取って今いる病院に来てくれるのかな……ううん、持ってなくてよかった。
環お姉さまを裏切らずに済んだから。電車でお話したくらいでやましいことはなにもないけど、もう関わっては駄目なんだ。それでも好きな気持ちはなくなってはくれない。
◇
十一月△日。
由加がお見舞いに来てくれた。久し振りの親友とのおしゃべりはとても楽しかった。
ただ、由加はあの人を話題に出した。
今は触れないで欲しい。環お姉さまと一緒にいた所を思い出してしまうから。
あたしはとっさにに記憶をなくした振りをした。
嘘をつくのは下手だけど、頭を強く打ったこともあり、由加は信じてくれた。
この先続くこじれた初恋は、一生あたしだけのひみつだ。
◇
五月□日。
SNSじゃなくてこの日記帳に書いてみる。四年振りかな。
あの人と再会した。片時も忘れたことのないあの人。
他校の知らない女の子に絡まれて、叩かれそうになるところを助けてくれた。
あの人は、四年前と比べて背が伸びて、更に綺麗な顔立ちになっていた。
きっと私を覚えていないから、初対面の振りをした。
馬鹿な私は、動揺してしまったのかスマートフォンを落としてしまった。けれど、家から電話をかけてみたらあの人が出た。拾ってくれたみたい。
こんな偶然ってあるの?
日記帳のページは、この日を境に途切れていた。
(私って拗らせているなぁ……)
この初恋は、悠が落とした定期入れを拾って届けた時から始まった。悠に対して芽生えた気持ちは、未だに冷めることなく続いている。
(目を覚ましたら、遅かれ早かれ私は振られてしまうかもしれない。その時が来たら、私は悠くんじゃない人を好きになれるかな)
そんな未来を想像してみたが、全く思い描くことが出来なかった。
拒絶されたらと思うと背すじが凍るほど怖いが、いつまでも目を覚まさないのはもっと嫌だ、と響は思った。
(悠くん、どうか無事でいて……)
川端から連絡が来るまで、響は生きた心地がしなかった。二日間だけだったが、響にとって永遠の時に思えた。
しかし、混乱した心は少しだけ落ち着かせることが出来た。
もし、川端から聞かされたその日にすぐに病院に向かえば、激しく取り乱して、悠の身内に迷惑をかけていたかもしれない。
連絡を貰った翌朝、川端が響の自宅まで迎えに来てくれた。
「おはようございます」
「響ちゃん、あまり寝てないでしょ」
川端は車から降りると、紳士のように助手席側のドアを開けて乗るように促した。
病院へ向かっている途中、川端は寝ててもいいと言ってくれたが、響は悠が気になって全く眠気がやって来なかった。
川端に連れられて辿り着いた先は、大きな総合病院の一角にある個室の病室だった。
(ここに悠くんが……)
「あら、」
背後から一人の女性の声が響の耳に届いた。
ドアに向けていた視線を、振り向いて声の主に向けた。
彼女は響と同じくらいの背丈があり、瞳と髪は悠と同じ色彩だった。
響は一方的に彼女を知っていた。
(悠くんの従姉妹さんだ)
以前、悠に彼女の結婚式の写真を見せて貰ったことがあったからだ。
ウエディングドレス姿の彼女の、目を見張るほど美しさに驚いたものだ。その時の衝撃は鮮明に覚えていた。
「瑞穂ちゃんじゃん」
「川端さんと……もしかして、悠の彼女?」
肯定していいか迷いがあったが、別れは保留中であるから躊躇いながら頷いた。
「初めまして。笹山響と言います」
響は瑞穂に一礼した。
「初めまして。あたしは悠の従姉妹の桜宮瑞穂です。響ちゃんって呼んでもいいかな?」
「はい……すみません、突然来てしまって。本来なら連絡を入れるべきでした……」
「大丈夫だよ。悠に会いに来てくれて嬉しい」
嫌な顔を見せない瑞穂の態度に、響は密かにほっと息をついた。
「響ちゃん、入って」
ドアを開けて中に入る瑞穂に続いて、響は川端と共に足を踏み入れた。
「失礼、します……」
文化祭の日以来、久し振りに悠の顔を見た。
眠っている悠は、刺されていたとは思えないほど穏やかな顔付きをしている。
揺り起こせば、今にも目を覚ましそうだ。
「悠、くん……」
声に出た大好きな人の名は、弱々しく空間に消えた。
(私が、逃げ出さなければ、悠くんはこんな目に遭わずに済んだのに……私の弱さが招いたんだ)
罪悪感と自己嫌悪でもたげる。
(私のせいで、ごめんなさい……)
何度も何度も心の中で謝罪を繰り返しながら、眠る悠をしばらく見つめていた。
頬を伝う涙に気付き、己の涙腺の脆さに内心呆れてしまう。
「刺されるのが私なら、良かったのに……」
(私も近くにいたのに……月見里さんにとって、彼女の私は邪魔な存在でしょう?)
胸に留めていた本音が、ポロリと零れ落ち、病室内に静かに広がった。
「響ちゃん、そんな悲しいこと言わないで。心配しなくても悠はその内目が覚めるよ」
瑞穂は響にそう言って優しくいさめた。
「ごめんなさい……でも、悠くんがこんな目に遭ったのは、私のせいですから……」
「悪いのは加害者だよ。いくら好きな人に相手にされないからって傷付けていい理由にならない」
そう言う川端は、手のひらで響の頭をぽんと優しく置いた。
(どうして、二人とも私に優しくしてくれるんだろう……)
気を張っていないと、涙が更に零れ落ちてしまいそうだ。
「川端さん、飲み物買いに行こう」
「そうだねー。響ちゃんは悠の傍にいてあげて?」
「あ、あの……」
二人は響を残して、病室を後にしたのだった。
瑞穂と川端がいなくなって、室内は響と悠の二人きりになった。
ちらりと悠を見ると、相変わらず眠っている。精巧に造られた人形のように綺麗な顔だ。
「私のこと、嫌っていてもいいから……早く目を覚まして……」
本当は怖い。それでも拒絶しても構わないから、悠には生きていて欲しい。
響は切実に願わずにはいられなかった。
響は悠の大きな手をぎゅっと掴むと、自分の頬に寄せた。
響は本当は悠に依存したくなかった。健全で真っ当な関係を築きたかった。
しかし、それを望むことを許さないと言うようにドロドロに甘やかされる。
悠に縋って駄目になる自分を、許さないでいて欲しかった。
それなのに、悠は無条件に受け止めてくれた。
いつしか響は、悠のいない日常が想像出来なくなっていた。
ただ想うだけで幸せだった無垢な自分は、もういない。
「──響ちゃん、」
ぽんと置かれた手に、響は、はっと現実に戻った。いつの間にか川端と瑞穂が戻って来た。
コーヒーショップの紙袋を手にした瑞穂が、響に微笑みかせていた。
「メニュー勝手に決めてごめんね。カフェラテとキャラメルラテどっちがいい? 中にあるブラックは川端さんの分だよ」
「えーと……」
「響ちゃんって甘党だったっけ? こっちにする?」
「ありがとうございます……」
瑞穂はキャラメルラテの入ったカップを響に差し出した。
病室を抜けると、フロア内にテーブルと椅子が設置された簡易なカフェテリアがある。三人は四人がけのテーブル席に座って、温かい飲み物を飲んでいた。
「響ちゃんってどこの大学に通っているの?」
「私、高校一年です」
「へ? 同い年か一つ下だと思ってたよ」
「よく上に見られます……」
意外そうに目を丸くする瑞穂に、響はへらりと笑ってお茶を濁した。
背が一六○を越してから、実年齢より少し上に見られることが多くなった。
大人びているのは見た目だけで、本当の精神年齢は年相応かそれ以下だけれど。
「響ちゃんは、どんなきっかけで悠と出会ったの?」
瑞穂に問われて、響は再会になることは伏せて、出会った頃の話をした。うっかり落としたスマートフォンを悠が拾ってくれて接点が出来たことも含めて。
「響ちゃんがスマホを落とさなかったら、また会うことはなかったかもしれないんだね」
瑞穂は瞳をきらきらと輝かせていた。
「まるで少女漫画みたいだねえ」
川端はにこにこと笑いながら頷いていた。
飲み物が空になった頃、病室に戻り、しばらく悠の様子を見ていたが、眠っているのは相変わらずだった。
「私、そろそろ失礼します。長居してすみません」
「響ちゃん、また来てね」
夕方の時刻に差し掛かる頃、響はお暇した。
響は、毎日とまでは行かなかったが、時間が許す限り見舞いに訪ね、自発的に呼吸をして眠る悠を見ては、まだ
年が明けて正月が過ぎても、悠はまだ眠ったままであった。
通い続けている内に気付いたことがある。
「響ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
瑞穂以外に悠の叔母や叔父と鉢合わせることがあったが、彼の両親を一度も見たことがなかった。
(ご両親は忙しい人なのかな。それとも……)
響はこれ以上考えて追及することをを辞めた。
これはあくまで響の憶測でしかない。それに悠にとって触れて欲しくない事柄だろう。
響もいじめの冤罪や、爪弾きされていることに触れて欲しくなかったように。
悠から瑞穂以外の家族の話をほとんど聞いたことがなかった。高校二年になる弟がいると聞いたくらいだ。
響が初めて病室に訪れて、ひと月が過ぎていった。
一月はあと少しで終わりを迎えようとしていた。世間はきたる二月のバレンタインデーで賑わっている。
響は学校の図書室で昼休みを過ごしていた。
無意味と知りながらも、自宅から持ってきたチョコレートのレシピ本を広げて、美味しそうなお菓子の写真を眺めている。
(悠くんが目を覚ましたら、作ってあげたいな……私と関わってくれるか分からないけれど……)
ぼんやりと眺めていると、ブレザーのポケットに入っているスマートフォンが振動する。
スマートフォンを手に取ると、川端から着信だった。
辺りを見渡して見ると、生徒はほとんどいない。
響は奥の書架に場所を移し、着信に出た。
「もしもし」
「響ちゃん、俺、今病院なんだけど、お、落ち着いて聞いて」
焦りのある川端の声に、心臓がぎゅっと掴まれたような心地に陥る。
「川端さん、どうかしたのですか?」
(悠くんは、無事なの……? それとも……)
くらり、と目眩が響に襲いかかる。
最悪のケースを想像してしまい、立つこともままならない。
「川端さん、話を続けてください」
それでも、どんな結果が待ち受けようが、川端に耳を傾けなければいけない。
響は覚悟を決めて、川端が切り出すのを待ち構えていた。
「────そうですか……はい、分かりました」
川端との通話を終えると、響は膝を抱えた。
「うっ、ひっ、く……」
嗚咽を抑えたくても、次から次へと溢れる涙のせいで抑えられない。
(これは現実? それとも夢?)
響は確かめるように川端の言葉を、鮮明に思い起こした。
そして、いてもたっても居られなくなり、図書室から飛び出した。
"────北川が意識を取り戻した"
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