手を伸ばしても、その涙に届くことはなく

響は今も別室登校をしているが、周りに気遣って放課後になると文化祭の準備に参加している。

下校時間になるまで残っている為、今日のようにゆっくりと過ごせる日は、明日から文化祭が終わるまではお預けだ。


「響のクラスは何をするの?」

「クレープを作って売るんだ。私は裏方で作る方」


響の返答を聞いて悠は内心安堵した。

呼び込みを任されていたら、人一倍容姿端麗な響は周囲の視線を無駄に集めてしまうだろう。


「響はお菓子作りが好きだから適役だね」

「うんっ。途中で自由時間になるから一緒に回らない?」


愛する可愛い響のお願いを断る選択肢は、悠の中になかった。


「いいよ」

「ありがとう。文化祭楽しみ」


微笑みながら寄り添う響に釣られて、思わず悠も破顔した。





あっという間に、響を家まで送る時間に差し掛かってしまった。


「響といると時間が経つのが早いよ」


響とどれだけ会っても、一緒に過ごしても、送り届ける時間に差し掛かると名残惜しさを感じてしまう。


「悠くん……」


響は悠に寄り添っては顔を上げた。

この仕草は、キスをして欲しいと言うサインだ。


「響、」


触れるだけのキスから啄むものになり、やがて舌を絡ませる深いものへと変わっていく。


「んっ、ふぁ、ん……」


誕生日以来、響はフレンチキスにハマってしまったようだ。


舌を絡ませながら制服のネクタイを緩ませ、シャツのボタンを二つ外すと、響の鎖骨が外気に触れる。


「あぁっ」


薄くなった赤い痕の上に噛み付くようにきつく吸い上げると、響は体をしならせてあられもない声を上げた。


響は立っていられなくなり、悠に身を預けてぎゅっとしがみついていた。


白磁の肌に赤はよく映える。

所有の証に染まる響を目の当たりすると、滾るものがある。

異性恐怖症に片足を突っ込んでいる響が、自分だけを受け入れてくれる。その事実に愛おしさは今にも溢れかえりそうだ。


鎖骨に触れた唇を耳元に移すと、耳のラインに沿って舌を這わせてみる。響は生理的な涙を浮かべて潤んだ瞳をさせていた。


「んっ、や……」


戸惑いを隠し切れない控え目な嬌声が鼓膜を震わせる。


「響、声は我慢しなくていいよ」


響は予想通り耳が弱い。耳元で囁いた己の声に腰がびくりと揺れた。


「あぁぁっ……」


耳たぶをやんわりと甘噛みすると、響は体を仰け反らせて一際甘く鳴いた。


(これ以上は俺の理性が危なくなる……)


悠は散らばった理性を掻き集めると、響の外されたボタンを留め、緩めたネクタイを直してあげた。

途中までで抑えられた自身を褒めてやりたい。


響は目を伏せて無言を貫いていた。頬は林檎のように染まっている。


「帰ろうか」

「う、うん……」


最近では物足りなさそうな眼差しを見せるようになった。

心の拠り所だけではなく、体の欲求を満たしてあげられるのも自分だけだ。

いつか響が望む日が来れば、延々と抱き潰してしまいそうな気がしてならなかった。





十一月の上旬の終わり頃の日曜日。誠稜高校の文化祭当日を迎えた。

ハロウィンの余韻が残っているようで、仮装する生徒がチラホラ見受けられた。


響も中学二年の頃、百合ヶ丘の文化祭で仮装をしていた。悠は当時を思い起こしていた。

当時は修道女のような格好をしいた。

その姿は気高く美しいものだった。その姿は例外なく写真に収めている。



「──北川くん?」


思いを馳せているところに、自分を呼ぶ声が耳に入り、我に返った。


声をかけたのは毛先を緩く巻いた長い髪を揺らし、満面の笑みで駆け寄る女性。

悠はその声の主に見覚えがあった。


五月の下旬、響と再び接点が持つことが出来た日に告白してきた同じ大学の女であった。

丁重にお断りした翌日から、頻繁に話し掛けられるようになった。敬語で話していた彼女だが、次第に取れてタメ口になっていった。


悠は靡くことなく彼女のアプローチを一線を引いてやんわりとはねのけていた。


(名前は確か……)


頭の片隅の更に奥底から記憶を探り、引っ張り出した。


「……月見里やまなしさん、奇遇だね」


彼女の姓がありふれたものだったら思い出すことすら出来なかっただろう。


「私は父方の従妹がここに通っているの。姉妹みたいに仲が良くてね。北川くんも似たような感じ?」

「彼女が通っているんだ」


月見里は悠の言葉に、顔を一瞬だけ強ばらせたが、すぐに優美な笑みに切り替わった。


「彼女がいたの? いつから」

「八月からだけど」

「そうなの……初めて聞いた」

「話したことなかったからね」


月見里に限らずよくつるむ友人にも打ち明けたことがなかった。いくら気心の知れた友人だとしても響を見せたくなかった。

悠は友人からは相変わらず絶食系だと思われていた。


「そろそろ行くね」

「ええ、またね」


悠は月見里と別れて、響のクラスの屋台を目指した。




「────もうすぐ私が目を覚まさせてあげる」


月見里が仄暗い眼差しを悠の背に向けて呟いていたことは知る由もなく……。





響のクラスのクレープ屋は、すぐに見つかった。定番の甘いものもあれば、ハムやチーズを具に使うご飯系もあった。


響はせっせとクレープ生地を焼いていた。上は文化祭用に作られた赤いTシャツを着ていた。


視線が交わると、響は照れ笑いを浮かべながら悠に手を振っていた。


(その可愛い笑顔、外で見せないで……響に見とれる害虫が増えるだろ)


湧き出た独占欲を持て余しつつも、悠は響に悟られぬように笑みを浮かべては手を振り返した。




「お待たせっ」


自由時間になり、ブレザーに着替えた響が悠の元にやって来た。

響からはクレープ生地の優しく甘い匂いがほのかにあった。


「お疲れ様」


頭を優しく撫でると、響の表情は綻んでいく。

月見里と言葉を交わして、疲弊した心が癒されていくのを感じた。


「軽く何か食べてから見て回る?」

「うんっ」


二人はどちらともなく指を絡ませて手を繋いた。


他のクラスの屋台でたこ焼きを買って、腹ごしらえをすると、校内の催し物を見て回った。


響は爪弾きされているが、隣に悠がいるのか、生徒は表向きは普通に響に接していた。そんな生徒の態度に密かに安堵の息をつく響を見逃さなかった。


響は終始笑顔だった。


「体育館で軽音のライブがあるけど、観に行く?」


一通り催し物を見終えた頃には、もうすぐライブの開始時間に差し掛かっていた。

コピーバンドが大半だが、オリジナルで曲を作っているバンドも一組だけある。


悠の問いに響は小さくかぶりを振った。繋いでいる手に力を込める。


「こっち、来て……」


響は悠の手を引いて、どこかへ連れて行こうとした。




辿り着いた先は、誰もいない裏庭だった。草は綺麗に刈り取られている。

真ん中に大きな桜の樹が鎮座しており、春になれば美しい光景を魅せるのだろう。


「いきなりごめんね。悠くんに見とれる女の子がいたから……つい……」


響の嫉妬は、可愛いらしいものだった。その可愛さは悶絶しそうなほどで、今にも気が触れそうだった。


「そんな子いたの?」


自分の容姿の良さは多少なりとも自覚しているが、他の女の視線は全く気付かなかった。響しか見ていなかったからだ。

響に見とれる一般客の男の視線なら気付いていたけれど。


「気付いていなかったの?」

「響しか見えなかった」

「なにそれ……ふふっ」


響は丸くさせていた目を細め笑みを零す。

そして、おずおずと甘えるように悠に抱き着いた。


「文化祭の準備で全然会えなかったから、こうしてていい?」

「いいよ」


応えるように華奢な背中に腕を回すと、響の体温が伝わってくる。

心地よくて、ずっとこうしていたいと思うほどだ。


「あのね、」


己の胸に埋め、もじもじしつつも何か言いたそうにしている。

響の仕草は一挙一動、胸を高鳴らせる。


「ん?」

「文化祭が終わったら一緒に────」



「笹山さん、こんなところにいたんだぁっ」


響の言葉は間延びしたソプラノに遮られてしまった。響はすぐさま悠から離れて少し距離を置いた。


二人の前に月見里と響と同じ制服を着た小柄な女子がいた。彼女は月見里の従妹だろうか。まるで本当の姉妹のように似通っている。


「北川くん、この子、私の従妹なの」

「わたし、笹山さんと同じクラスの桐谷です」


響は平静を装っていたが、強く握りしめる手は小さく震えていて不安なのだと察した。


「響の彼氏の北川です。響の友達かな?」


悠の問いに、桐谷は両手で口元を押さえたまま笑い出した。


「まさか、ありえないって。彼氏さん、学校での笹山さんを知らないんですかぁ?」


桐谷は響に視線を向けては、嘲笑を浮かべる。

この女は洗いざらい暴露する気が満々のようだ。


「それはどういう意味?」


その気なら、響にとって最悪のシナリオへ展開してやろう。


悠が尋ねた瞬間、響の顔が青ざめだした。響の前髪から覗く額から冷汗が浮かび上がっている。


「笹山さん、みんなに無視されているんですよ。良くない噂がいっぱいあるから嫌がらせされていますよ」

「ち、違……」

「本当のことでしょー? それに……」

「桐谷さん、やめて……っ!」


響は声を張り上げたが、桐谷は話すことを辞めようとはしなかった。


「中学の頃、取り巻きを使って幼なじみをいじめていたんだって。当時の同級生から聞いたから間違いないですよ」


響が必死に隠し通していた秘密を、桐谷によって暴露されてしまった。


大きな猫目を限界まで見張り、悠を一瞥すると、すぐに目を伏せる。浮かび上がった大粒の涙が長い睫毛を濡らしていく。


「ごめんなさい……っ」


響は耐え切れなくなったのか、その場から逃げ出した。


みやこちゃん、頑張ってねぇ」


響がいなくなると、桐谷はクスクスと笑いながら、月見里に手を振って立ち去っていった。


裏庭には悠と月見里の二人きり。

月見里は眉を下げて憐れむように潤んだ眼差しを悠に向けていた。


「あの子がそんな酷いことをしていたなんて……ショックだよね」


悠は無言を貫いたまま、月見里を見据えていた。


「あの……私、まだ北川くんが好きなの。だからあの子の代わりに────」

「ごめんね。月見里さんの気持ちに応えることはない」


響は本当に何もしていない。響の心身を掌握する為に悠の手によって悪役に仕立てられたに過ぎない。


「何を言っているの?」

「俺はあの子を信じたい……探しに行くね」

「待っ……」


(俺が黒幕だと知らずに……本当に馬鹿な女)


悠は腹の中で月見里に毒を吐き捨てた。そしてそのまま彼女を残して響を探すべく裏庭を後にした。


学校の敷地を出ると、スマートフォンを取り出し、響の位置情報を割り出す。すると、駅を通り過ぎた先にある小さな公園にいることが分かった。


盗聴もしてみると、響の静かな嗚咽が耳に流れ込んできた。


──私を信じて……悠くんと、別れたくないよ……。


嗚咽混じりの切実な願いは、悠の体の血を滾らせ、胸の中を熱くさせた。

響にとって、悠に別れを切り出されることは絶望そのもののようだ。


(俺に軽蔑されて振られるのが怖くて堪らないんだね)


これから響の全てを受け止めて、完全に己に陥落させる。

その時が刻一刻と近付いているのだと思うと、悠は零れ落ちる笑いを止めることが出来なかった。


(笑ったらだめだって。響の前で心配そうな顔にならなきゃ……)


上機嫌になって歩いている時だった。


「北川くん……!」


背後から月見里の大きな声が聞こえ、悠は邪魔された苛立ちを隠して無表情で振り返った。


「あの子と別れないの? 評判悪い子なのに……」

「別れる気は全くないけど」


悠の即答に、月見里は「正気なの?」と力なく呟いた。


「あの子、見た目は欠点がないほど綺麗な子だもんね。性格が悪くても別れるのが惜しいのね……」


月見里はトンチンカンな解釈をした。


(どの口が言っているんだ。響は見た目だけの子じゃないのに……まあ、俺が隠し通しているんだけどな)


「それなら、二番目とか、遊びはだめかな……それでもいいって思えるくらい貴方が好きなの」


なおも引き下がらない月見里に思わず舌打ちをすると、据わった眼差しを彼女に向けた。


「そんなこと言われても正直迷惑でしかないんだけど」


悠にとって月見里の好意は益々煩わしいものとなった。


「どうしても、ダメなんだ……そっかぁ……」


月見里はしばらく何か独り言をブツブツと呟いていた。丸っこい大きな目は血走っていて、不気味に見える。


「もう話すことはないから、俺は行くね」


(お前に費やす時間が勿体ないんだよ)


悠は月見里を一瞥することなく、足早に公園を目指して行く。しかし、その歩みは月見里に後ろから抱き着かれることで阻止されてしまう。


「早く離れろよ」


(鬱陶しい。響がこれを見たら誤解するだろ)


取り繕うことを辞めて、冷たく吐き捨てるが、月見里の絡み付いた腕は離れそうにない。


「……っ!」


その時、右の脇腹に何かが入り込む感覚があった。同時に鋭い激痛に襲われる。その痛みはほんの少しの間だけですぐに消えた。

脇腹に入り込んだ何かが引き抜かれる感覚が気持ち悪くて仕方なかった。


振り向くと同時に、月見里はゆっくりと悠から離れた。両手を背中に隠している様子は不自然であった。


「貴方が悪いの……私を、選んでくれない貴方が悪いの」


その声は掠れて震えていた。

月見里は酷く青ざめた顔をさせてそう言うと、あの頃と同じように脱兎のごとく駆け出して行った。


痛みがあった脇腹に手をやると、手のひら全体に血がべっとりと付いていた。

しかし、今は全然痛みがない。大した怪我でないだろうと思い、悠は特に気にも留めていなかった。

それどころか、先日の買い物で響が薦めてくれた服が汚れてしまい、申し訳なさを感じていた。


────この時の悠は完全に冷静さを欠いていた。


「早く、響の所に行かなきゃ」


月見里の姿がなくなり、悠はポツリと呟くと、響に会いに行こうと再び歩みを始めた。

GPSを調べると、響はまだ公園から動いていない。


気持ちは響の元へ一秒でも早く駆け出したいのに、体は思うように動かない。


(寒い……)


今日一日中はアウターが必要ないほどの暖かな天候のはずだが、悠は真冬のような寒さに襲われ、歯がカチカチ当たるほど震えていた。


響がいる公園がある通りに出ると、悠を目にした通行人はおぞましいものを見たかのように戦慄いた。


辺りは阿鼻叫喚であった。

しかし、悠は見向きもせず、ゆっくりと公園までの道のりを歩いていく。頭の中は響でいっぱいであった。


(どうして動かないんだ)


やがて立つことも困難になり、意思とは裏腹に体が崩れ落ちていく。

視界が歪み、意識が遠のいていく。

深淵のように真っ暗な深海の底へ沈んでいくような感覚に近い。


“お前いつか刺される気がしてならねえよ”


不意に何故か川端の忠告が脳裏に過ぎった。


(動けって。きょうが、ひとり、で……ない、て────)





「────早く救急車を呼べ! このままだと失血死するぞ!」


男の通行人の怒号は、悠に届くことはなかった。

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