白百合は狂人の掌の上で躍らされ続ける
夏休みが明け、二学期が始まった響だが、相変わらずの爪弾きされている状況に打ちひしがれていた。
放課後になると、悠から誘ったり、響に誘われたりして二人は頻繁に会っていた。
学校が辛ければ辛いほど己に甘える響にご満悦な悠であった。
だが、蜜月のような日々に青天の霹靂とも言えることが起きた。
「────ごめん、今なんて言ったのかな」
九月の中旬のある日、授業を終えた響と落ち合って、悠の自宅で二人きりで過ごしていた時だった。
「あの、近々予備校に行こうかなって」
「そう……」
響の突然の発言に、悠は力のない声を洩らしてしまった。
「休み明けの授業についていけなくなって……危機感を覚えたの」
「そんなに?」
「うん。私馬鹿だから。今の高校によく入学出来たと思うよ」
(嘘つけ。学年十位以内の癖に)
気まずそうに口ではそう答えているが、本当は違う。
カーストの高い女子に話し掛けられて、悠との関係を根掘り葉掘り聞かされた。その時に不安を煽られる言葉を浴びせられた……と言う真相を盗聴で知った。
“そんな頻繁に会ってくれるんだ。すごいねぇ。普通はめんどくさいよ”
“彼氏さんも大学の付き合いがあるんだから、ほどほどにしないと重いって思われるよ”
案の定、響は裏アカウントに不安をぶつけていた。
“重い彼女になって嫌われたくないよ”
“自分のことばかりだった。ベッタリしないように気を付けなきゃ”
「個別か集団かは迷っているんだけど、行くようになったら今みたいに会う頻度が減るの」
響の悠に嫌われまいと必死になる姿は健気だが、予備校通いは解せない。
予備校は他校の男子や男の講師がいる。響に魅了される男が後を絶たない未来が脳裏に過ぎってしまう。
(他の男との接触は、俺が赦さないよ)
「そうなんだ。でも、予備校に通うと帰り遅くなるよね。響って基本早寝だから体調崩さないか心配だよ。そうなったら本末転倒じゃない?」
本音は隠して、角が立たぬようにやんわりとおすすめしないと言う。
「確かに帰りが遅くなるね……それでも、予備校に通いたい。成績も何とかしたいし、他校の友達が出来たらいいなって不純な動機もあったりする」
(は? 俺がいるのに、まだ友達を欲しがるの?)
響の言葉を聞いて、悠はまだ完全に己に依存していないと確信した。
「私が予備校に通えば、悠くんも自分の時間が出来て、お互いにとっていい距離感になると思うの」
依存しまいと抗う響に、苛立ちが表に出てしまいそうになる。例え、悠に嫌われたくないという思いから出た行動だとしてもだ。
悠は舌打ちしたくなり、代わりに舌の先を噛み締めていた。口内に鉄の味が少し広がった。
「何処にするかは決まってないんだよね」
「今はまだ……」
(響が他校の男や男の講師がいるような場所に通うなんて、正気の沙汰じゃない……)
暗に依存から脱却しようと言う響の口を塞いでやりたいが、響に血の味を知られたくない。
苛烈なまでの嫉妬に苦しんだ証の味を。
「今みたいに会えなくなるのは寂しいけど、響のこと応援するよ。俺も出来る限り協力するからね」
「悠くん、ありがとう」
悠はそんな感情を悟られぬように穏やかな笑みで隠した。
(必ず阻止してみせる。響に交友関係は死んでも作らせない)
響の予備校行きの検討発言から数日が過ぎた。
悠は夏休みを終えて大学に通っている。夕方の講義がないこの日、響と会う予定であり、誠稜高校の最寄り駅の前で落ち合うはずだった。
しかし、響は中々やって来ない。
位置情報を調べると、GPSが示す場所は、今いる駅前から十分歩いた場所にあるカラオケボックスだった。
響にヒトカラの趣味はない。一緒に楽しむ友人もいない。
誰かに無理矢理連れて行かれたと推測する。
「……迎えに行ってあげなきゃね」
悠は意味深にほくそ笑むと、響の元へ向かうべく歩みを早めて目的地を目指した。
カラオケボックスに着くと、フロントに立つ店員は、接客がいい加減なのか、問題なく中へ入ることが出来た。
部屋までは分からず、しらみ潰しに一つ一つ確認する。
そして、三〇八号室のドアの窓を覗くと、響と件の害虫はいた。
「お高くとまってんじゃねえぞ! ああ゛っ!?」
響が同じ高校の男に胸倉を掴まれたまま、壁に押し付けられていた。
響は壁に押し付けられた痛みに顔を歪め、顔面蒼白で怯えている。
「やだ……離して……」
「清楚ぶってるけど、本当は誰にでも股開くんだろ? 俺にもヤラせろよ……なぁ」
「い、いやだ、やめ──きゃあっ!」
悲鳴と同時に、壁を殴り付ける激しい音が耳をついた。響の顔のすぐ真横に男の拳があった。
響は青ざめたまま、小刻みに震えて怯え切っている。
「抵抗すると、殴んぞ」
地を這うようなドスの効いた低い声に、響は目にいっぱい涙を溜めていた。
今にも卒倒してしまいそうな有様だ。
悠は外からの静観を辞めて、中に足を踏み入れた。
響から男を引き剥がし、響を隠すように庇って立つ。
「俺の彼女に何してるの?」
据わった眼差しを向けると、男は突然現れた悠に驚き、動揺していた。
「いや、ちょっと……」
「早く消えてくれない?」
たじろぐ男に内心苛立ち、悠は無表情で近寄る。
「早くこの子の視界からいなくなってよ────じゃないと、お前を
響には聞かせられないドスの効いた声音で囁くやいなや、男の右手の中指をあらぬ方向へ曲げた。
「っ、あ゛……」
余程の痛みなのか男は声にならない声で悶えている。そしてへっぴり腰になり、命からがらと言った風にこの場から離れて行った。
響は膝を抱えて、恐怖で小さく震えている。
「怪我はない?」
「だ、大丈夫……」
響の身近に恫喝するような異性はいなかった。父親のような物腰柔らかな異性しか知らない響は、あの男が怖くて仕方なかっただろう。
酷く怯えるのも無理はない。
悠は着ていた薄手の黒いカーディガンを脱ぎ、響の肩に掛けた。
「響、これ羽織って。ボタンが……」
「あっ……」
あの男に胸倉を掴まれた拍子にシャツのボタンが引きちぎられていた。
シャツははだけて、黒のシンプルなキャミソールが露わになっている。
不可抗力で見てしまった控え目な胸元につい息を呑んだが、響の心のケアが最優先だと心の中で叱咤した。
響は電車に乗れる精神状態ではなかった為、タクシーを捕まえて彼女の自宅まで向かった。
「ありがとう……」
「電話、夜中でも遠慮なくしていいから。また明日迎えに行くね」
そう言って踵を返し、響に背中を向けたが、「まって……」と響の弱々しい声が耳に届いた。
「あの、悠くん……うちに、上がって……」
意図的ではない上目遣いの懇願に、悠は神経の昂りを自覚する。
(もっと縋れ、依存しろ。俺がいないと駄目なんだって刻み付けてあげる)
「……いいの?」
「お父さん仕事で遅いの。一人は怖いよ……」
「お母さんは?」と言う疑問が喉まで出かかった。
響のことに関することは粗方調べ済みだが、何故か彼女の母親の情報は見つからなかった。
生存しているかどうかも分からずじまいである。
響に関することは全て知りたいが、いくら恋人同士とは言え、土足で踏み込んで尋ねるのは無神経だと感じ憚られた。
「いいよ。響が安心するまでいるよ」
「ごめんなさい……」
自室の前に辿り着くと、着替えたいからとドアの前で待たされた。しばらくしてドアが開くと、丈がふくらはぎの中間まであるノースリーブのワンピースに纏った響がそこにいた。
その服も悠が選んだものだ。
「どうぞ……」
「お邪魔します」
付き合って一ヶ月過ぎ、初めて響の自室に足を踏み入れた。
淡いパステルカラーを基調とした、シンプルながらも女の子らしい内装だ。窓際やベッドなど所々に可愛いぬいぐるみが飾られている。
灰色のシックなワンピースにエプロンを付けた女性の使用人が中に入り、二人に紅茶を置いた。
「助けてくれて、ありがとう……悠くんが来てくれなかったら多分、殴られてた……」
「胸倉を掴まれるのは同性でも怖いのに、男相手だともっと怖かったよね」
ラグビー部か柔道部に居そうな恰幅のいい男だった。いくら響が背が高い方でも、所詮は女。あんな厳つい男に手加減なしで壁に押し付けられて、命の危機を感じたに違いない。
響は思い出したのか、カタカタと恐怖に震えている。唇を噛み締めて涙を堪えていた。
「響、我慢しないで……俺の前では泣いていいから」
優しく抱き留め、髪を優しく撫でると、
「ゆたか、くん……っ」
響の涙腺は崩壊し、悠にしがみついては泣きじゃくった。
「響は……俺も怖い?」
「え……」
響がひとしきり泣いて落ち着いた頃、悠は躊躇うような素振りで尋ねた。
その問いに、響は悠の胸に埋めていた顔を上げた。頭の中は大きな疑問符で埋め尽くされているようだ。
怖ければ家に上げ、部屋に入れる真似はしないだろう。悠は分かりながらも敢えて響に尋ねてみた。
「響に暴力を振るう真似は死んでもしないけど、俺も同じ男の括りに入っている。今は何も起きていないけど、ふとしたきっかけで響がフラッシュバックを起こすかもしれない。俺は響から離れた方がいい?」
そう言って、響から数十センチ離れると、響は悠の背中に腕を回し強くしがみついた。
「いやだ……っ」
「響……」
「悠くんは、他の
響は目尻に大粒の涙を溜めたまま悠に縋った。
「響の言葉を聞いて安心したよ。俺も響から離れたくないよ」
(事が上手く運んで良かった。響は益々俺にのめり込んでくれた)
響に恫喝していた男子生徒こそ、悠が前から泳がせていた害虫であった。
進学校の中では不良とまではいかないが、粗暴者な彼は、ガタイの良さも手伝って他の生徒からも敬遠されていた。
入学時からこの男は響に穢らわしい視線を向けていた。それは性的な意味である。
本来ならすぐ排除に取り掛かるのだが、響をコントロールする為の駒に使えそうだと気付き、動向を見つつも放置していた。
正直、この策は諸刃の剣だった。悠自身も恐怖の対象に入るリスクが大いにあったからだ。
しかし、響は悠が自分から離れることを拒絶してくれた。
どの道、響がどう反応しようが手放すことはないが。
(あの害虫はもうお役御免だ。消えてもらおう)
響が抱き着いているのをいいことに、悠は真っ黒な笑みを深めていく。
「よかった……これからも、傍にいて……私のこと、飽きるまでの間でいいから……」
涙声で懇願する響が怖いくらい可愛過ぎて、今座っているソファーに押し倒したくなった。
(響に飽きる日は一生来ないよ。響が例え俺に飽きても閉じ込めてでも離してあげない)
「ずっと傍にいるよ。俺が響のこと守ってあげるからね」
そんな響の額にそっと口付けを落とした。
響の自室で夕飯をご馳走になり、食べ終えた後はソファーに座り、響を膝の上に向かい合うような形で乗せて抱き締めていた。
「私、重くない?」
「響は軽いよ。少し太ってもいいくらい」
折れそうな細い腰に絡めた腕に力を込める。
「あの、悠くん」
「ん?」
「あの時の男の人とのやり取り、聞いたよね……私……」
「あんなのデタラメだって分かってるから」
あの害虫は響の噂を真に受けていた。響が不特定多数の男に体を許していると。
本当は未だに純潔は保たれているというのに。
「良かった……」
「響、好きだよ」
悠は壊れ物に触れるように優しく唇を重ね合わせた。
唇が離れると、響はとろんとした表情を隠さずに悠を見つめていた。
「私も、悠くんがすき、です……」
(響の世界は、俺だけがいればいい……例外があるとするなら俺と響の子どもだけ)
両親の愛をまともに知らぬ悠は、その時が来たら親の役割を果たせるか不安があったが、響が隣にいてくれれば乗り越えられるだろうと自己完結した。
「そう言えば、この前言ってた予備校はどうするの?」
悠は一つ確認したいことがあり、響に尋ねた。
「あ……」
「同じ学校だけじゃなくて他校の男もうじゃうじゃいるけど、それでも通いたい?」
悠の言葉に、響の顔から血の気が引いた。
「どうしても帰りが遅くなるでしょ? 響が事件に巻き込まれたら俺は心臓がいくつあっても足りないよ」
恐怖を煽らせるに留まらず罪悪感も刺激させる。
(優しい響は、俺に申し訳なくなって心苦しくなるだろう)
「私……予備校はいかない……っ」
響は今にも泣きそうな顔で力強く答えた。
あの恫喝は響にとって心に深く刻み込まれたようだ。
あの害虫は上手く働いてくれたものだと、悠は密かにほくそ笑む。
「そっか……これからは俺が勉強を見てあげるからね」
「弱くて、頼ってばかりでごめんなさい……」
眉を下げ、弱々しく謝る響を宥めるように黒髪を優しく撫でていく。
「響が罪悪感を持つことは何もないよ。俺は彼氏として響の力になりたいだけ」
「ありがと……」
「俺はいつでも響の味方だからね」
(ずっと、俺と二人きりでいようね……)
響の世界はより一層閉鎖的なものとなった。まるで見えない鳥籠に閉じ込められているようだ。
響はその事実に未だに気付いていない。
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