毒よ蝕め、我が色に染まれ

八月終盤のある日の夜、二人は電話をしていた。

午前中から夕方まで悠の自宅で一緒に過ごしていたが、響がお風呂から上がったタイミングで電話を掛けた。


響がSNSの裏アカウントに、声が聞きたいと呟いていたからだ。


「夏休みもう終わっちゃうよ……悠くんはまだ休みだよね」


トーンの落ちた声音から、響は二学期が始まると言う事実に憂いていた。

響にとって学校は苦痛に満ちた場所でしかない。


「休みは九月の中旬まであるよ」


大学は高校と違って夏休みが長い。


「羨ましいなぁ……」

「ここまで長いと退屈だよ」


苦笑いを零すが、響の監視が捗る故に、全く退屈ではないのが本音である。


「バイトはしないの?」

「たまに、知り合いの飲食店の手伝いはしてるくらいかな」


大学生になってからは、時折、川端に頼まれてバーで短時間働くことがある。

働く時間帯は響が寝ているので支障はない。


「私もバイトをしてみたいけど、うちの高校は禁止なんだ」

「誠稜って厳しいね」


(学校や親が許したとしても、俺がさせないよ)


響がアルバイトをしてしまえば、接触を図る害虫が現れたり、友人が出来て世界が広がってしまう。

世間一般では、交友関係を築くことは望ましいとされているが、悠にとっては狂気の沙汰に値する。


(俺が自立して働いていれば、学校なんか辞めさせて、家に閉じ込められたのに……婚姻届が出せるのは先になるけど……)


悠は、まだ学生の身分であることを恨めしく思った。


しばらく取り留めのない話を続けていると、響は「あの……」と切り出した。


「どうしたの?」

「今日会ったばかりだけど……明日も会えないかなぁ」


(付き合ってから益々俺を心の拠り所にしているね)


響の日に日に向けられる好意が大きくなっていることは、実感している。

抱き締めると甘えるように擦り寄る仕草は目眩を覚えるほど愛らしい。


「この電話で我慢しようと思ったけど……やっぱり悠くんに会いたい。でも、無理ならいいよ」

「いいよ。明日会おうか」


響が会いたいと言うならば、悠の中に断ると言う選択肢は勿論ない。

寧ろ、この言葉を待っていた。


「ありがとう。嬉しいっ。学校は憂鬱だけど、悠くんに会ったら頑張れるの……」

「学校で嫌なことあったの? 友達と上手くいかないとか?」


素直に喜ぶ響が可愛いと内心思いつつ、少しだけ足を踏み込んでみたが、響は「違うよ」と即答した。


「授業や課題が大変だからそれがちょっと嫌なだけだよ。心配かけてごめんね?」


響が通う誠稜高校は公立ではトップクラスの偏差値の高さを誇っている。

口では大変と言いながらも、響は一学期の中間と期末は十位以内に入っていた。

彼氏に成績を把握されているとは、響は夢にも思わないだろう。


「何もなくて良かったよ」

「大丈夫だよ。人間関係は全然問題ないよっ」


響は努めて明るくトーンで話をしていた。


(まだ打ち明けなかったか……)


まだ隠し通されていることに、悠は少し残念に思った。

そうは言っても、この蟻地獄から解放させる気はまだない。


「明日行きたいところはある?」

「そうだね……でも、悠くんといられたら、私はどこでも楽しいよ」


(これ以上可愛いこと言わないで……)


響限定でちょろくなる己に、悠は密かに苦笑を浮かべた。


「少し遠出になるけど、水族館に行ってみる?」


隣県にある水族館にしようと思案した。

近くに海岸があり、遊泳禁止期間となった今は飢えた害虫はいないだろう。帰る前にまったりと夕日を眺めるのも悪くない。

なお、遊泳期間中の海に連れていくと言う選択肢ははなからない。


「……行きたいです」

「明日は九時前に迎えに行くね」

「うんっ」


通話を終えると、悠はスマートフォンを充電器に差し込み、ベッドの上に横たわる。


朝になれば再び会えると分かりながらも、待ち遠しくてその日の夜は中々寝付けなかった。





翌朝、響の夏休み最終日を迎えた。


「悠くん、おはよう」


猫目を細めて微笑む響は、ノースリーブのシャツと膝丈のフレアスカート、身にまとっていた。足元はヒールが低めの白いミュールで飾られている。その服と靴は先日買い物に行った時に悠が選んで買ったものだ。


すらりと伸びた白磁の手足が艶めかしい。


「おはよう、響。その格好もすごく可愛いよ」

「あ、ありがとうっ」


会う度に可愛いと言っているが、響は未だに慣れることはなく頬を染めて照れている。

その仕草に抱き締めたい衝動に駆られてしまう。毎回衝動を鎮める為に骨を折っているなど、響は露ほども知らないだろう。


いつものように指を絡ませた恋人繋ぎをし、空いた手で日傘を差して駅まで歩いて行った。


電車内は座る場所がないほど混み合っていた。

運良く吊革の前スペースが二人分空いていたのでその前に並んで立った。


「水族館、小学生の頃以来だよ」

「俺も。長いこと行ってないや」


最後に行ったのは、小学三年か四年だったと記憶している。

連れて行ってくれたのは、両親ではなく叔母夫婦だった。両親にどこかへ連れて行って貰ったことは一度もない。


「私ね、」


不意に響は一度悠を一瞥すると、視線を車窓から見える景色に移しては俯き加減になった。


「夢だったの。彼氏と水族館に行くのが。だから、悠くんと行けて嬉しいよ」


響は両手で吊革を握り締めたまま、俯いてはにかむ。伏せられた睫毛はマスカラが塗られているのかいつもより長かった。


「良かった────響の夢を叶えてあげた男が過去にいなくて」


悠がそっと耳打ちすると、響の華奢な肩がびくりと小さく揺れた。潤んだ瞳で何かを訴えるように悠を見つめている。


(その顔は反則……ここが家だったら何度もキスしてるって……)


響は耳が弱いようだ。

耳を甘噛みしてやりたくなったが、響の甘い声を他の男に聞かせたくなくて押し殺した。


(響に元彼がいたら、きっと俺は殺人鬼になっているに違いない)


響に元彼の存在がいたと仮定してみる。


息の根を止めるに留まらず、響に触れた指をへし折って、響を映した瞳を抉り取って、響に口付けをし、愛の言葉を囁いた口を引き裂いて、響を征服したのならアレを潰して……。


おぞましい仕打ちをする己の姿が真っ先に浮かび上がった。


(想像だけでもこの様だ。実在したらきっと発狂している)


響に元彼と言う存在がいなくて良かったと、悠は心底思った。

今後も自分が元彼になるつもりもない。彼氏と言う肩書きを無くす日があるとするなら、結婚して“夫”になった場合のみだ。


これからも同じ墓で眠るまで響の隣を誰かに譲る気は皆無だ。





目的地の水族館に辿り着くと、響はそわそわと辺りを見渡していた。


「チケット買わなきゃね」

「待って」


響は余程早く館内に入りたいのか、いそいそと販売窓口に並ぶ行列を目指そうとしたが、悠はそれを呼び止めた。


「前売り券は買ってあるから。すぐに入れるよ」

「ありがとう……いくらだった?」


響が肩に掛けた鞄を探り、財布を取り出そうとする所を止める。


「お金はいいよ」

「だめ、払わせて。私のわがままで連れて行ってくれたから……」

「響に出してもらうのはまた今度ね」


口ではそう言ってみたものの、出させる予定はほぼない。


「……いつも、ありがとう。今度お礼させてね」


そう見上げながら言った響は上目遣いになっており、悠の鼓動をはやらせた。


(響が俺の隣にいてくれれば何もいらないのに)


切実な本音は、口を噤んで己の中に封じ込めた。




 

館内は家族連れやカップルが大勢いて、賑わっている。

二人ははぐれないように手を繋いで、水槽の中にいる生き物を眺めていた。


「クマノミが沢山いるね」


はしゃいだりすることはなかったが、水槽に向ける目は輝いている辺り、童心に返っているのがよく伝わった。

そんな姿も、悠の目には抱き締めたくなるほど愛らしく映っていた。


「可愛い……」


響はコツメカワウソのコーナーから、足に根っこが張ったように動けなくなった。

人気のコーナーなので人だかりがあったが、女子の平均より高い響は難なく見ることが出来た。


(もう一人自分がいれば、その笑顔を撮れるのに……)


付き合うようになってからは、目線の合ったものや、ツーショットが少しずつ増えているのに、カワウソに向けられる無邪気な笑顔を見ると、盗み撮りたい欲求がむくむくと湧いて出てくる。


しかし、その異常な行為を響に知られる訳にはいかない。


「響、ペンギンのコーナーも見る?」

「見たい……っ」


目を輝かせながら頷く姿を目にした瞬間、家に帰したくなくなってしまい、危うく嘆息しそうになった。



館内の生き物を一通り見た後、施設内にある飲食店のエリアにある店で少し遅めのお昼を摂ることにした。

響はオムライス、悠はカルボナーラを食べている。


「悠くん、ありがとう……チケット代も出してくれたのに、お昼ご飯もごめんね」

「気にしないでよ」

「……高校生なのに、私ったらあんなにはいしゃいじゃって、子どもっぽくて呆れた?」


響は不安げに悠を窺うように見つめた。


悠は微笑を浮かべながら宥めるように頭を優しく撫でた。


「呆れる訳ないから。つまらなそうにされるより楽しそうにしてくれる方が嬉しいし」

「それなら良かった。でも、少しでも悠くんに釣り合うような大人な彼女にならなきゃって思っていたんだけどな……」


響は肩を竦めて、困った風に微笑んだ。

高校生になった今も、響にとって四つの年齢差は大きく感じるようだ。


「響は背伸びしなくてもそのままでいいよ」

「それだと、どんどん悠くんと釣り合わなくなっちゃう」

「……自分がどれだけ魅力的か理解していないね」

「そう思うのは悠くんだけだよ……っ」


真っ赤になって抗議する響が、悠の目にはあまりにも可愛く映り、口付けしたい衝動を抑えるのに苦労した。


(響は何も考えずに俺に愛されていればいい。俺がいないと息が出来なくなってしまえ)


昼食を摂った後、二人はお土産コーナーを回っていた。


響は大きなシロクマのぬいぐるみに釘付けになっていた。

デフォルメされていて、響が好きなゆるキャラのような見た目をしている。


誘われるように近付くと、手に取ってそっと撫でた。


「もふもふ感がすごい……これは、反則……」


響はしばらくぬいぐるみの感触を楽しんでいたが、買うことなく元の棚に戻した。


「これ欲しいの?」

「だ、大丈夫だよっ」


響は必死にかぶりを振り、うつむき加減になって少しの間だんまりになった。


「ぬいぐるみじゃなくて、何かお揃いのもの……買いたい……」


ぽつりと呟いた声に、悠は目を丸くさせた。

思いがけない可愛らしいわがままに頬が緩んでしまいそうだった。


「でも、嫌なら……」

「何か探そうか」

「いいの?」


(響のお願いを拒否する訳ないだろ)


「ありがとう」


そう言った時の響の破顔に、鼓動が壊れそうになったのは、悠だけの秘密である。


選んだのはリアルな生き物のキーホルダーだった。同じシロクマのものを二つ選んだ。


「どこに付けようかな」

「キーケースにしようかな」

「私もそうしようかな」


二人は水族館を後にし、帰る前に近場にある海岸へ連れて行った。


夕景が美しいスポットとしても名を馳せている海岸は、地元の者らしき人が散歩しているくらいで、ほとんどいなかった。


手を繋いで波打ち際を歩いていた。

六時を過ぎると、真っ青だった空は、すっかりオレンジ色に染まっていた。


「わあ、綺麗……」


水平線に沈む夕陽に、響は感嘆の声を小さく洩らす。


「とても綺麗だね」


(君がいるから、取り巻くもの全てが美しく見えるんだ)


響を手に入れる為、近付く害虫も、同性の友達も排除してきた。

一緒に景色を眺める何気ないこの一時すらも、数多の犠牲の上で成り立っている。


「……時間が止まればいいのに」

「何か言った?」


響は小首を傾げていた。

その仕草は計算していない辺りタチが悪い。


悠は目を細めて柔らかい笑みを浮かべ、


「響にキスしたいって言ったよ」


そっと響に耳打ちをした。


「えっ!?」


悠の言葉に、響は視線をさまよわせて動揺を露わにしていた。


「ここ、外だよ……?」

「日傘で隠すから誰にも見られないよ」


悠は手にしている日傘で隠すと、響の顎を上げては薄紅色の唇に口付けをした。背中に響の細い腕が絡まる。


響の唇は薄いのに、ふんわりと柔らかくて何度でも味わいたくなるほど強い中毒性がある。


「はぁ……ん、う……」


塞がれた唇から零れるくぐもった響の甘い声は、理性を粉砕し狂わせていく。


(好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ……)


この持て余した響への狂おしいまでの感情が伝わるように何度も啄むような口付けを繰り返していく。


リップノイズを立てて、ゆっくりと唇を解放すると、響はとろけた涙目を隠さず、ぼんやりと悠を見つめていた。


(可愛い)


広げた日傘を畳み、響の耳元に唇を寄せた。


「呼吸、上手に出来たね」


耳元で囁けば、響はまた肩を小さく震わせた。

始めは息絶え絶えだったのに、今ではキスしながらの鼻呼吸が出来るようになっていた。


「悠くんが教えてくれたから……」


悠は響に鼻で呼吸するだけでなく、キスする時は背中に腕を回すように吹き込んだ。

真っ白な響が少しずつ自分の色に染まっていく。

その事実に、悠は強い愉悦ゆえつを覚えた。


人の目が周りにないのをいいことに、悠は響を優しく抱き締めた。


「好きだよ」

「私も、好き……」


響は躊躇いながら悠の背中に腕を回すと、甘えるように抱き締め返した。




手を繋いで、駅から響の自宅までの道のりを歩く。


「ごめんね、遅くまで連れ回して」

「ううん、お父さんには遅くなるって言ってあるから大丈夫だよ。楽しんで来てって送り出してくれたよ」


響は特に気にしている様子もなく笑顔だった。


響曰く、父親は割と干渉しない主義だと言う。

彼氏が出来たことを報告したら、特に反対する様子もなかったと教えてくれた。


(意外だな……)


高校時代、理事長は一人娘を目に入れても痛くないほど可愛がっていたと、当時の担任から又聞きしたことがあったからだ。


それでも、響の父に認められている、などとおめでたい思考に至ることはない。

何かきっかけがあればすぐに引き離しにかかりそうな気がしてならなかった。


「響は大事な一人娘であることに変わらないでしょう? 俺、悪い彼氏だって思われないか心配だよ」


眉を下げて自嘲気味に笑うと、響は瞠目させて驚きを露わにした。


「悠くんが悪い彼氏なら、世の中の彼氏は悪い人だらけだよ」

「ふふ、過大評価だって」


悠は真剣な眼差しで言う響に、笑みを零してしまう。

川端が響の台詞を聞けば、皮肉な笑みを浮かべることは間違いない。


(仮に反対されようが、響を離す気はないけどな)


響の意志など関係なく攫うまでだ。

悠は指を絡めて繋いだ響の手を、少しだけ強く握り締めた。


あっという間に響の自宅に到着してしまい、名残惜しさを感じながら繋いだ手をゆっくりと離していく。


「今日も楽しかったです」

「俺も楽しかったよ」

「悠くんのお陰で明日から頑張れそうだよ」


響は気丈に振る舞って笑おうとしているが、寂しさや憂鬱は隠し切れていない。


「無理はしないで。俺はまだ休みだから放課後会おうね」

「っ、うんっ」


大きく頷いた響の周りに、春のように花の幻影があちこちに咲き零れた。


(響の本当の姿を見たら、堕ちる奴は続出するだろうな……死んでも見せないけど)


響を周りからもっと遠ざける為にもデタラメの悪評を広めてやろうと思案したのは、悠だけの秘密だ。





この夜、響は帰宅はいつもより遅くなったが、余程疲れたのか昨日より四十二分早く就寝した。

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