深淵の底から、崖の淵に立つ君を嗤っている

縁日があった数日後の深夜。


繁華街の外れにある雑居ビルの地下に小さなバーがあった。

出入口のドアに“closed“と書かれた札が掛かっているが、店内に悠と二十代半ば程の青年がいた。


「────それで、四年近くの歳月を掛けてやっと付き合えた訳だ。何その執念。頭イカレてんな」


白いシャツに黒のベスト、ズボン、蝶ネクタイと言う所謂バーテンダーの格好をした端整な青年が、グラスを布で磨きながらせぬと言いたそうに片眉を下げた。


彼の名は川端かわばた。今いるバーの若き店主である。経緯は割愛するが、彼とは遡れば小学六年の時分から付き合いがある。

唯一、悠の響への歪んだ愛情表現とこれまでしてきた所業を知っている人物である。


「で、響ちゃんは美味しく頂いたの?」

「まだ手を出していませんよ」


気持ちが通じた夜。悠はお持ち帰りすることなく丁重に響を家まで送ってあげた。

遠くなる己の姿を寂しそうに見つめていた響の姿は、気が触れるほど可愛かった。


「俺が北川ならお持ち帰りして速攻食ってるわ」

「今はまだその時期じゃないから……」


前々から、響の心の準備が出来るまでキスより先の行為はしないと決めている。


「同じ学校じゃないから四六時中居られないよな。いくらぼっちでも油断出来ない。その内響ちゃんに接触を図る男が現れたりして」

「そいつが現れても大丈夫なように、俺以外の男が危険だって教え込むんですよ」


琥珀色を細め、薄い唇が弧を描く。


元々響は異性と関わりがほとんどないので苦手意識を持っているが、それでもまだ不十分だ。


自分以外の男が危険だと学習させる為に、悠は以前から響の周りを彷徨うろいている一匹の害虫を泳がせ、駒として使おうと思案していた。

実行は夏休み明けを予定としている。


「あーあ、響ちゃん可哀想。お前みたいな男に捕まっちゃって。もし……本性がバレて別れ告げられたらどうすんの?」

「縁起でもないことを言わないでください。もし、そうなったら……閉じ込めて孕むまで抱き潰す」


その声は凍てついてしまいそうな冷徹さが含まれていた。


基本は響の気持ちを優先するが、例外はある。

響が別れを告げるか、避ける等して自分から離れようとした時だけは、どれだけ拒絶されても抱き潰す気でいる。


「通報するぞ」


悠に向けられた川端の目からは、ありありと軽蔑の色が見えた。

悠はだんだん可笑しくなってきて、くすりと小さな笑いを零した。


「はは、今のは冗談ですよ。流石にそんな真似をしたら未来の義父に張っ倒されますって」

「全然冗談に聞こえなかった。目がマジだったんだけど……」


川端が眉をひそめ、心底引いているのがよく分かる。

取り繕ってみても、長い付き合いのせいで本気であることはバレバレであった。


「……そうならないように祈っていてください。俺も出来ればその結末は避けたい」

「そこは死ぬ気で避けろよ。昔から北川は悪い意味で放っておけねえな」


今ではホストクラブにいても可笑しくないミステリアスで整った風貌だが、かつて破落戸ごろつき共を束ねていた川端は、何だかんだ言って面倒見がいい性分だ。


(響から別れを告げられるなんて、想像するだけで体を四つ裂きにされたみたいに痛いな……)


悠は冷めた眼差しを己に向けて別れを告げる想像上の響を追いやるように、川端が作ったモヒートを一口飲む。


アルコールが入っていくのに、体は冷めたままだ。ほろ酔いにもならない。


(……一応、手枷を用意しておくか)


悠の頭の中に、ベッドの上で手枷に繋がれている響が浮かび上がった。

琥珀色の瞳が静かに翳った。





翌日の昼下がり。

初めて響が悠の住まうマンションに訪れる日であった。

叔母と従姉妹の瑞穂を除いて異性をこの家にあげるのは響が初めてだった。


悠は響を迎えに行って、従者のように日傘を差して上げて連れて行った。

猛暑の中、響を一人で歩かせる真似はとても出来なかった。


「お邪魔します……」


響は緊張しながら玄関でサンダルを脱ぎ、揃えている。

買ってあげた水色のワンピースに身を纏った響の姿はとても可憐だ。

昨日より響への好きな気持ちが、大きく膨らんでいくのをひしひしと実感した。


リビングに通すと、響はまだ緊張が解けないまま室内を見渡していた。


害虫の視線が完全にシャットアウトされたこの場所に響がいると神聖なものに変わる。聖域サンクチュアリと言っても過言ではない。


「そのワンピース着てくれたんだね。嬉しいよ」

「おかしいところないかな……」

「とても似合うよ。可愛い」


悠は、恥ずかしげに俯く響を抱き寄せては、耳元で甘く囁いた。


「あ、ありがとう」


頬がほんのりと染まっている。さらりと流れる黒髪を手に取ると、頬と同じ色に染まった耳が露わになった。


「照れてる?」

「だって、可愛いなんて言われ慣れないから……」

「縁日の日、響のことを見ている男が何人もいたよ」

「え……嘘でしょう?」


響は信じられないと言いたげに瞠目させていた。


「響は綺麗で可愛いから、すぐ他の男に攫われそうで怖くなるよ」


本当の恋人同士になったからと言っても、悠は安心することが出来なかった。いつ害虫が響を狙っているか分からない。今まで通り目を光らせていなければいけない。


「そ、それは絶対ないよ。今まで、悠くん以外の人に相手にされたことなかったし……だから、心配しなくても大丈夫だよ」


響は安心させるように悠に微笑みかけた。


(それは俺が一匹残らず排除しているからな。俺以外の男が響を相手にすることはない。死ぬまで思い込んでいればいいよ)


「私とは逆に、悠くんは放っておく人はいないよね」

「そう?」


響の微笑に寂しさが含まれていた。


「どこにいても女の子の視線を集めてしまうし、性格も優しくて非の打ち所がないもん。私よりずっと綺麗な人や可愛い人が現れたらそっちに行ってしまいそう……」


響の弱々しい声が静かに耳に届いた。


今の響のような自信のない気質は、悠にとっては非常に都合が良かった。

そう言った弱みに付け込んで、肯定して受け止めてあげると、人は強い安心感を覚える。


(不安になったら俺が何度でも安心させてあげるから。そうしたら俺から離れられなくなるでしょう?)


「響以上に綺麗で可愛い女の子はいないよ」

「い、いるよ……っ、ん」


悠は前触れもなく、響の顎を上げて唇を塞いだ。

響は瞼をきつく閉ざし、悠のシャツを握り締めて息苦しさに耐えていた。

息継ぎをする余裕がない響の初々しさに、愛おしさが悠の中に募っていく。


塞いだ唇を離すと、響は酸素を求めて肩で息をしていた。


「不安が無くなるまでキスしようか? あの夜みたいに」


縁日の夜、響にとって初めてのキスにも関わらず、何度も求めてしまった。腰を抜かすほど感じていた響に、理性が塵になるほど欲情してしまったものだ。


「え、あの、その……」


響はしばらく固まっていた。次第に頬が染まり、視線をさまよわせて動揺を露わにしていた。


「あ、水羊羹作るね……っ、キッチン、借りてもいい?」

「どうぞ」


キッチンへ逃げるように向かう響の背中を、悠はくすりと小さな笑いを零しては微笑ましく見つめていた。


響はキッチンに立ち、持参した黒いエプロンを着けて作り始めた。


鍋に水と粉寒天を入れて火にかけて木べらで混ぜながら煮溶かす。火を止めてこしあんを加えてなめらかになるまで混ぜる。再び火をかけて焦がさぬように沸騰するまでかき混ぜていく。


響がお菓子を作るところは初めて見たが、楽しそうで、本当に好きなのだと伝わった。


家から持参したステンレスの冷やし型に、液体を流し入れ、粗熱が取れると冷蔵庫にしまった。


「一時間冷やせば完成だよ」


響は身に付けていたエプロンを外し、丁寧に折り畳んで鞄にしまうと、悠の元へ歩いて向かった。


「それまでテレビ観てようか。響が好きそうな番組録画したんだ」

「なんだろう?」


リビングのソファーに並んで座ると、リモコンで操作し、レコーダーに保存されている猫のドキュメント番組を再生させる。


「か、可愛い……っ」


響は画面に映る白と黒のはちわれと三毛猫に釘付けになっていた。

響は動物が好きだ。特に好きな生き物は猫である。


身内に猫アレルギー持ちがいて飼いたくても飼えない。道端で野良猫を見掛けると、去るまで動けなくなることは、日頃の監視で把握済みだ。

幸い、悠は小動物に嫉妬は抱くことはなかった。

もし、嫉妬を抱いていれば響を惹き付ける猫をほふっていたかもしれない。


悠は猫に夢中になっている響を見つめていた。


番組が終わる頃には、一時間が経過しており、水羊羹が完成した。


「昨日、よく行くお茶屋さんで煎茶を買ってきたの」


響は鞄を探り、小さ目の紙袋を取り出した。中には煎茶の茶葉が入っている和柄の丸い缶があった。


「急須はある?」

「あるよ。俺が淹れるね。温かいのと冷たいのどっちがいい?」

「ありがとう。温かい方でお願い出来る?」


叔父が日本茶に凝っていて、淹れ方にもこだわっていた。

叔父から教わったお陰でお茶の淹れ方はマスターしている。


皿の上に乗った切り分けた水羊羹と、温かい煎茶が入った湯のみ、今日の為に用意した漆塗りの和菓子切をトレイに乗せて、リビングへ運んだ。


「いただきます」


口の中に、つるりとしたなめらかな食感とあんこの優しい甘さが広がる。

作っている様子を見る限り、この水羊羹は複雑なレシピではなかったが、店で売られていてもおかしくない出来映えだった。


「どうかな……?」


響は水羊羹に手を付けず、煎茶を一口飲み、悠の反応を窺っていた。その瞳に不安の色が滲んでいた。


「心配しなくても、すごく美味しいよ」


安心せるように響の頭にぽんと手を置いて、優しく撫でた。

響はほっと安堵したかのように息をついた。


「お口に合って良かった……」

「響の作ったお菓子はどれも美味しいから、不安にならなくても大丈夫だよ」

「緊張するよ。悠くんには美味しいって思って欲しいもん」


健気な響の姿は、いたく心を揺さぶられるものがある。

頭の中がもっと自分でいっぱいになればいい、と悠は願わずにはいられなかった。


「響も食べよう」

「うんっ、いただきます」


悠に促されて、響も和菓子切で一口分を切り分けて食べた。


「美味しい……」

「でしょ」

「悠くんの淹れてくれたお茶も美味しいよ」

「それは良かった」


二人で水羊羹を堪能する。


「一緒に食べるともっと美味しいね」


ふにゃりと破顔させた響を、密かに目に焼き付けた。


人の目が全くない二人きりのティータイムは、悠にとって癒しの一時となった。




二人で過ごすとあっと言う間に時間が過ぎていく。

夕方の五時を半分過ぎた頃。


「家まで送るよ」


本当は家に帰したくないが、響の父親に悪い印象を持たれたくない。何よりか細い理性がいつ失せるか分からない。

名残惜しさを抱きながら、帰る支度を始める。


「私、一人で帰れるよ。夕方でも暑いし、送り迎えは大変だよ」


響は慌てた様子で断ろうとしていたが、勿論、悠は聞き入れるつもりはない。

響を一人で帰らせれば、いつ害虫が絡んでくるか分からない。心臓がいくつあっても足りない。


「寂しいこと言わないで。少しでも響といたいのに」

「……っ」


両方の頬に手を添えて、お互いの額をくっつけると、響はすぐに頬を染めた。


「お願いしようかな……私もちょっとでもいたい」


そう言ってはにかむ響を目にした途端、我をなくし響を掻き抱いた。

響は相変わらず華奢だが、四年前と比べると体の線は女性的なものに変わり、柔らかさがある。


「帰る前にキスしてもいい?」

「……」


響は無言でゆっくりと瞼を閉ざした。肯定と見なし、悠は優しく触れるだけの口付けを響に落とした。




響を送り届けて自宅に戻った頃。


“さっきまで一緒にいたのに、もう会いたくなった……”


SNSの裏アカウントに響の呟きが投下されていた。


「……俺も同じ気持ちだよ」


会えない日も離れたところから監視しているので、ほぼ毎日響を見ているが、気持ちが通じた今は顔を合わせて言葉を交わし、触れ合いたい気持ちが著しく強い。


悠としては毎日会いたいくらいだが、ここは堪えて数日置くことにした。


《今週の金曜日、猫カフェ行ってみない?》


夜の八時頃、悠は響宛てにメッセージを送った。


《行きたいっ》


誘いのメッセージは、すぐに既読が付き返事が来た。


響は駆け引きなど知らない無垢な子だ。

素直な反応がいたく可愛くて、悠は頬が緩みそうになっていた。


(もっと俺を好きになって、俺がいないと駄目になってしまえ)


響が順調に己に陥落しつつある様に、悠はほくそ笑んでいた。

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