その薄紅の唇に呪詛を込めて
横殴り雨が何度も窓を激しく叩き付けている。
天気予報の通り台風が直撃し、外は大荒れだ。
河川が氾濫していて、その周辺の地域に避難勧告が出ている位だ。
響は無事だろうか。
様子を見に行きたいところだが、道中怪我を負ったり、最悪死ぬようなことがあっては本末転倒だ。
悠は充電器を繋げているスマートフォンを操作し、響宛にメッセージを送信した。
《そっちは何も起きてない? こっちは無事だよ》
数分後に響から返事が来た。
《こっちも大丈夫だよ!》
平静を装っているが、ただならぬ嵐に怯えていることは盗聴で確認済みだ。
時刻は深夜の零時過ぎ。いつもなら夢の中にいる響だが、眠れていないようだ。
布団を被って怯えている響の様子が目に浮かんだ。
悠はすかさず響に電話をかけた。
「もしもし」
「もしもし……雨すごいね……きゃっ」
窓がギシギシと激しく軋む音が遠くから聞こえてきた。
「大丈夫?」
「大丈夫。びっくりしただけだよ……早く通り過ぎて欲しいね」
「音が気になって眠れないでしょ」
「うん……すぐ怖がるところ子供っぽくて情けないや」
「誰だって苦手なものはあるよ。眠くなるまで話していようか」
「ありがとう」
会いに行けないことに不満を抱いていたが、響と言葉を交わせることが出来て台風様々だと内心思った。
「この前ね、水羊羹作ったの」
「すごいね。羊羹って作れるんだ」
「簡単なレシピがあったんだ。悠くんに食べて欲しいけど、今の時期は持ち運びすると傷むよね」
(響は優しいね。響が作ったものなら多少傷んでも進んで食べるのに……前に似たようなこと考えていたな)
悠はうっすらとした既視感を覚え、思わず苦笑いを浮かべた。
「響の作ったお菓子はとても美味しいから食べてみたいね」
誕生日にくれたマフィンは勿論、時々作ってくれたバタークッキーやフィナンシェは、甘党ではない悠でも美味だと唸らせるほど絶品だった。
「生菓子は涼しくなってからの方がいいかも」
「それなら今度、家に来て作ってよ」
「お、お家……!?」
悠の言葉に響は裏返った声を上げ驚きと動揺を露わにした。
響は親族を除く異性の自宅訪問は未経験であるので、狼狽えるのも無理はない。
以前、自分を自宅に呼んだ時も二人きりだったが、ストーカー問題で頭がいっぱいだったのか、それどころではなかったようだ。
「仮だけど、付き合っている訳だし、お互いの家を行き来するのは自然なことだと思うよ」
「そうなんだね……悠くんがいいなら今度、作らせて」
「楽しみにしてるよ」
(本当の恋人になったら、入り浸って欲しいな……)
密かに抱いていた願望が現実になる日が近付いていると思うと、悠は笑みを零さずにはいられなかった。
しばらく雑談をしていたが、響の反応がなくなった。
耳を澄ますと響の愛らしい寝息がスマートフォン越しに聞こえた。
窓に視線を向けると雨風は少しだけ弱まり始めていた。
(おやすみ、響)
心の中で呟くと、通話をオフにした。
数日後の八月十二日。縁日の日を迎えた。
例に漏れず悠は、響を迎えに彼女の自宅へ向かった。
「こんばんは」
色付いた唇が
響は、白地に藍色の
ショートボブの黒髪は編み込みされている。
更には薄くメイクがされていて、いつも以上に綺麗に見えた。響の美しさに上限はないようだ。
(誰にも見せたくないんだけど……夏休みで浮かれ切った害虫共の視線は避けられないな)
黒い独占欲を腹に隠して、目を細めては響に甘く微笑みかけた。
「その浴衣、よく似合っているよ。髪型も可愛い」
悠の言葉に、響の目はきらきらと輝き、嬉しそうにしているのがよく伝わった。
「そうかな……? ゆ、悠くんこそとても素敵だよ」
響はちらりと紺色の浴衣を着た悠を一瞥し、ふわりと微笑んだ。
この格好は瑞穂によって着付けされたものだった。
浴衣は動きづらいから面倒だとは思っていたが、響に褒められて、照れ臭くも嬉しく感じた。例え社交辞令だったとしても。
悠は内心密かに瑞穂に感謝した。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃないよ──……いるの?」
響が後半何かぼやいていたが、よく聞き取れなかった。
響の言葉は一字一句聞き逃したくないのに、不覚の極みである。後で盗聴内容を確認しようと密かに思った。
電車を乗り継いで、母校の最寄り駅を目指す。
響と並んで吊革に掴まって、取り留めない話をしていた。
「この前の台風は凄かったね」
「うん、正直怖かったよ。でも、悠くんが電話掛けてくれたから眠れたよ」
「話し中に寝ちゃったよね」
可愛らしい寝息を思い出し、微笑ましげに笑みを零した。
「いつも台風の夜は由加……幼なじみと電話していたんだ。高校違うから予定が合わなくて全然遊べてないなぁ」
響は由加に絶交されたことや、高校で爪弾きされていることを未だに悠に打ち明けていない。
それなりに友達がいて充実した高校生活を送っているように健気に振る舞っている。
「会いたいなぁ」
(絶交されても、まだ響の中にあの女がいるのか。響を信じてあげられなかった女なんか忘れてしまえばいいのに)
悠は間接的に二人の友情を断絶させておきながら、内心この場にいない由加に憤りを覚えた。
今でも、由加は悠にとって非常に煩わしい存在だ。
四年前、響が記憶を失ったことをいいことに自分の存在を隠蔽したことは、赦すことが出来ない。
階段からの転落による怪我が原因で、響が自分を忘れ去った衝撃と絶望は未だに深く刻み込まれている。
実の親に疎ましがられるより、胸は張り裂けそうに痛かった。何度かその当時の出来事が夢に現れた夜は、人知れず錯乱状態に陥ったことがあった。
その度に響の存在の大きさを思い知らされたものだ。
「──悠くん」
鈴を転がしたような可憐な声が耳に入り、我に返った。
「花火楽しみだね」
破顔させた響に、悠は心臓を鷲掴みされた心地になった。
(当時の自分に教えてやりたい)
予定より早く響と関わるようになって、もうすぐ手中に収まろうというところまで来ていると。
「そうだね」
早くこの腕の中に閉じ込めて、唇に触れたい。
そんな思いが悠の心を占めていた。
最寄り駅に降りると、ホームには浴衣姿の者が大勢いた。
友達同士で来ている者や家族連れ、カップルで来ている者様々だ。
自分達は周りからはカップルに見られているのだろうか。それとも、兄妹か親戚か。
そんな些細な思考は、響に見とれた害虫の視線によって掻き消された。
(響を映した害虫共の目玉を潰してしまいたい。自宅へ連れて、独り占めしようか……)
悠の中にどろりとした独占欲が顔を出したが、響の花火を見たいという願いを叶えるため、無理矢理鎮めた。
「結構人がいるね」
「俺の手を離しちゃだめだからね」
「うん。離さないよ」
大勢の人がひしめく神社は、電波が通らず、この時ばかりはGPSは役に立たない。間違ってもはぐれて響を一人にさせてはいけない。
悠は響の指を絡ませては、痛がらない程度にいつもより強く握った。
神社の敷地内を歩くと建ち並ぶ屋台が見えてきた。
「何か食べたいものはある?」
「かき氷が食べたいかなぁ」
響の望み通り、かき氷の屋台を目指した。
「悠くんも買う?」
「俺は大丈夫だよ」
悠は三、四口目辺りからアイスクリーム頭痛に見舞われるので、全ては食べられない。
瑞穂と過ごした和風のカフェに居合わせた響は、宇治抹茶のかかったかき氷を平然と完食していた。
響はいちごのシロップがかかったかき氷を買うと、邪魔にならないように隅に場所を移し、食べ始めた。
「美味しい」
甘いものを食べている時は、響の凛とした印象を与える猫目が柔らかいものに変わっていく。
「お店のかき氷もとても美味しいけど、縁日のかき氷は特別な感じがするの」
そう言ってまた一口を口に含む。瞼を閉ざして味わう様子は和んだ。
「響が美味しそうにしているから食べたくなっちゃった」
「食べる……?」
響は躊躇いなく一口を掬い、悠の口元へ運んだ。
口の中にシロップの甘さと、氷の冷たさが広がっていく。
響が食べさせてくれただけで、特別に美味しいものに思えた。
「久しぶりに食べたけど、美味しいね」
「そうでしょう?……あっ……」
間接キスで狼狽える響は、純粋でどこまでも悠を夢中にさせた。
屋台を一通り見て回った後、二人は境内へ繋がる石段の前に佇んでいた。
境内は一番花火が見える場所だが、尋常ではない石段の多さは敬遠されがちだ。
「石段かなりあるけど大丈夫?」
「が、頑張るよ」
体力に自信のない響は、長い石段を見て怖気づきそうになっていたが、両手を握りしめて自らを鼓舞していた。
(動けなくなっても抱き抱えてあげるけどね)
悠は響より十五センチほど背が高い。
長身の遺伝と中学・高校時代にしていたバレーボールのお陰だ。
響を抱えるくらい造作もない。
「始まるまで時間はあるからゆっくり行こう」
「うん……っ」
響のペースに合わせて、手を繋いで石段を登り始めた。
ゆっくりと時間を掛けて長い石段を登り切り、境内に辿り着いた。響は膝に手を置いてはぜえぜえと肩を上下さていた。
時折休憩を挟んだりしたが、『心臓破りの石段』と言う名は伊達ではないようだ。
案の定、境内を見渡すと、誰も登りたがらないのか、自分達以外人っ子一人いなかった。
「響、大丈夫?」
「大丈夫だよ……始まる前に間に合ってよかったね」
響は息を荒らげながらも、眉を下げてふにゃりと柔らかく笑う。
「ここに花火がよく見える場所かあってね、従姉妹に教えてもらったんだ」
この境内は眺望がきく場所がある。
景観に合わせた意匠を凝らした柵があり、響より頭一つ分低い程度の高さがある。
その柵の前に立ち留まり、今か今かと待っていると、やがて明るかった空に夜の帳が降りて、ようやく花火が打ち上がった。
「綺麗……」
空に咲く色とりどりの大輪の花に、響は目を輝かせていた。
これまで散々見つめているのに、夏の風物詩より響に目が吸い寄せられてしまう。
響に向けられていた害虫の視線がない今、独り占め出来るこの一時は悠にとって至福なものであった。
花火に見とれている響を、無性に抱き締めたくなった。その湧き上がった衝動を紛らわすように柵を握る手に力を込めた。
最後の一発が打ち上がろうとした時だった。
「好きです……」
最後の花火が打ち上がると同時に呟かれた響の
響の視線は花火が散った後も夜空に向けられたままだ。
「それは本当?」
今まで自分に告白してきた
「うん……今までごめんなさいっ」
肯定すると同時に、響は突然悠の方へ体の向き
を変えて頭を深く下げた。
「響……突然どうしたの? 顔をあげて」
響はまだ頭を下げたままだ。どんな顔をしているのか分からない。
「私、悠くんに嘘をついていたの。ストーカー行為はなくなったのに、まだいるって……」
「ストーカーは諦めてくれたんだね。響に何もなくて良かったよ」
響が嘘をついたことには触れず、無事で良かったと安堵する素振りを見せると、響は浴衣の袖をきつく握り締めていた。
「仮でも、悠くんの隣にいるのが心地よくて、もう少しこの関係を続けたかったの……でも、私聞いたの。この間、カフェに私も居合わせてて、好きな子に告白するって従姉妹さんに言っているのを聞いたの……だから、もう終わらせるね」
響は俯いていた顔を上げた。目尻に大粒の涙を浮かべている。
「ずっと悠くんの厚意に甘えてばかりで、ごめんね……? 今日は私のわがままを叶えてくれてありがとう。悠くんは好きな子の所へ行って? 私はまだここにいるから……」
響は悠に背を向け、とぼとぼと拝殿の方へ歩いて行った。
(仮に俺が響じゃない
悠はすかさず響を追い掛けて、手首を引いて自分の腕の中に閉じ込めた。
「え……なんで……?」
突然の抱擁に、響は目を点にさせて戸惑っている。
悠はそんな響の耳元に唇を寄せて、蜂蜜のような甘さで囁いた。
「俺の好きな子は響だよ」
「わ、わたし……?」
響は信じられないと言いたげに瞠目していた。
「でも、従姉妹さんが言ってた悠くんと一緒にいたって女の子は……」
「間違いなく響のことだから」
響は信じられないと言いたそうに目を見張っては、おろおろと狼狽えていた。
「どうして、私なの? 分からないよ、分からないよ」
「一緒にいる内に、響の健気なところや純粋な一面に癒されて強く惹かれたんだ」
背中に回した腕の拘束を解き、響の両肩に手を置くと、琥珀色の双眸は響を射抜くように捉えた。
「俺の本当の彼女になってくれませんか?」
(肯定以外の返事は受け入れないから)
切実に祈るような心地で、響を見つめていると。
「私で良ければ……お願いします……っ」
花が咲くように破顔した。涙に濡れた星空の色の双眸は悠を映していた。
「響が好きだよ」
悠は響の顎を上げるやいなやそっと薄紅色の唇を重ね合わせた。
触れるだけの一瞬の口付けに、響の瞳はうっとりととろけていく。
煽情的な眼差しに堪えきれなくなり、悠はまた唇に触れた。
優しく触れるだけの口付けから啄むようなものに変わり、何度も何度も繰り返す。やがて響の足が脱力したのか小さく震えだした。
「あ……っ」
響の膝がカクン、と崩れ落ちて地面に触れる寸前、悠は抱き留めた。
腕の中に上気した頬と潤んだ瞳で見上げる響がいた。少し荒い呼吸が色っぽくて腰がずくりと疼きだした。
「かわいい。キスで腰抜かしちゃった?」
「っ、悠くんが、沢山するからだよ。私、初めてなのに……」
目を伏せて恥じらう響の姿に目眩を覚えた。浴衣姿が余計に煽らせる。
細く折れそうな首筋に顔を埋めて、赤い花を咲かせてやりたい欲が沸々と湧き出てくる。
しかし、これ以上暴走すると響を怯えさせてしまう。
悠は散らばった理性を掻き集めて、響を解放させてあげた。
「響、もう一回聞かせて。今度は俺の
「好き……悠くんが、好き……大好きなの……」
潤んだ瞳を向けて真っ直ぐな気持ちを告げる響に狂おしいほどの愛しさが溢れ出し、思わず悠は響を掻き抱いた。
「俺も響が誰よりも大好きだよ」
腕の中にいる響の頭頂部に口付けを落とした。
こうして、悠は四年近くの歳月をかけてやっと響を手に入れた。
─────しかし、ここからが本番である。
(俺がいなくなったら希死念慮に支配されて絶望するくらい、依存させてあげる……)
己の胸に埋める響の髪を優しく撫でながら、腹に渦巻く野心を隠すように口角を上げて優美に微笑んだ。
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