俺から目を背けないで

生温く湿めった不愉快な空気が漂う、八月の月初を少し過ぎた夜の十時過ぎ。


響がお菓子作りの材料を買いによく行くスーパーマーケットの裏口から、勤務を終えた一人の男性が現れた。


物陰にいた悠は、殺意の篭った冷徹な眼差しを隠して、気の弱い素振りで男に近付いた。


「あの……少しいいですか?」

「あ、何?」


仕事モードが抜けて、声を掛けた相手が男と知ると、彼は横柄な物言いになった。


「よくお菓子の材料を買いに来る女の子を知っていますか?」

「えっ、あの子がなに?」


大まかな特徴しか述べていないにも関わらず、相手は常連客の響と察したのか声を弾ませた。


「俺は彼女の知り合いなんですが、貴方に話がしたいと言っていました」

「えっ、今いるの!?」

「ええ。彼女のいる場所まで案内するのでついて来てください」


(いい大人なのに、ホイホイ着いてきて馬鹿だな)


背を向けているのをいいことに、悠はその男に対して冷笑を浮かべる。


悠の後をついて行く男は、気が良くなったのか、聞いてもいないのに話を始めた。


「俺のアプローチに落ちたのかな〜。食事に誘ってみたり、事故に装ってボディタッチしたんだけど、素っ気なかったんだよ。シャイなところも可愛いけどね」


呑気な男の喋りは、火に油を注ぐように悠の殺意を煽らせていく。


「こんな夜に会いに来てくれるなんて……もしかして、俺と……」


みだりがわしい妄想を繰り広げているのか、並以下の顔を崩れさせてニヤけている。

例え脳内だとしても響を穢す真似は赦せなかった。


悠の歩みは人通りの少ない路地裏で止まった。


「あれ? あの子は……っぐええッ」


辺りを見渡す男の鳩尾に、悠の拳が前触れもなく手加減なしでめり込んだ。


男もとい害虫は崩れ落ちて、激痛に顔を顰め、はげしくむせていた。


「な……」

「お前みたいな虫けらに会わせる訳ないだろ」


悠は容赦なく害虫の頭を踏み躙った。


「気色悪いんだよ……お前如きがあの子に近寄ろうなんて烏滸がましいんだよ」


潰れたかわずの鳴き声ような声が聞こえようが、踏み躙る足を止めない。


「つう、ほう、するぞ……」

「やってみろよ──店の売上金を横領したことをバラす」


害虫の顔が青ざめた。


「やめ、……それだけは……っ、ここクビになったら俺は……何処も……」


生殺与奪の権を握ったと確信した悠は、口角を上げ残忍に嗤った。


「黙っててあげる。その代わり……」


悠は害虫を足蹴りして仰向けにさせ、急所のある箇所を踏み躙った。


「ぎゃああああっ!」


耳をつんざく害虫の断末魔が、路地裏に響き渡った。しかし、その声は街の喧騒に掻き消されていった。


虫の息に近い害虫を見て、悠はほっと安堵の息をついた。


(これで響を守れた……)


スマートフォンを取り出し、確認出来なかった響からのメッセージを見る。


《夏休みの課題やっと片付いたよ》


猫のゆるキャラが小躍りしているスタンプと共にあったメッセージ。


《お疲れさま。ゆっくり休んでね》


返信をしたためている悠の顔は、先程まで害虫を半殺ししていたとは思えないほど甘ったるい顔付きに変わった。





「久し振り、悠!」


翌日の午後。連日気温は三十五度を越えており、相変わらずの厳しい暑さだ。


悠は久し振りに従姉妹の瑞穂みずほと繁華街の駅前で落ち合った。

瑞穂の旧姓は吉川きっかわ、婚姻後は桜宮の姓を名乗っている。

ストレートの長い髪と、人形のようにぱっちりとした瞳は悠と同じ色彩をしている。


「挙式以来だね、瑞穂」

「暑いねー。どっかお店に入ろうよ」

「さっき良さそうなカフェ見つけたからそこでいい?」

「いいよ」


二人が入ったカフェは、京都に本店がある和風のスイーツを扱っている店だった。


瑞穂は抹茶小豆ロールケーキとアイスグリーンティー、悠は葛餅とアイスコーヒーを注文した。


あさひ先輩は元気?」

「元気だよ」


瑞穂の夫の桜宮おうみやあさひは、元々同じ高校の一学年上の先輩であった。

ツンドラ気候のように冷徹で無愛想、かつ女嫌いで有名だった彼は、今では影も形もないほど瑞穂を溺愛している。


新婚と言ってもまだ学生の二人は夫婦と言うより恋人同士がしっくりくる。


「あのさ、悠って彼女出来た?」


瑞穂の近況という名の惚気話に耳を傾けていると、瑞穂は突拍子もないことを尋ねてきた。


「いや……突然なに?」

「あたし、見かけたんだ。この前、悠が黒髪のショートボブの凄い美少女と一緒にいるところ。邪魔になりそうだったから声はかけなかったけどね」


瑞穂は、悠が響と一緒にいるところを密かに見ていたようだ。

そもそも響以外の女と出掛けることはないので、瑞穂が見かけたのは響で間違いない。


「今は違うけど……彼女になって欲しいなとは思うよ」


正直な気持ちを打ち明けると、瑞穂の琥珀色の瞳は爛々らんらんとしたものになった。


「良かったね。やっと新しい恋出来るようになったんだ」


瑞穂は、悠が環を忘れられずにいたと信じ込んでいる。


環と別れてすぐの頃、悠はまともに食事を摂ることを辞めた。

案の定、栄養失調となり授業中に倒れてしまい、悠が彼女と別れてショックを引き摺っていると言う噂は瞬く間に全校に広まった。

お陰で告白してくる女子はいなくなり、響の監視と害虫駆除に専念出来た。


「あの頃は瑞穂に沢山心配かけたね……もう環のことは思い出に出来たよ。今はあの子が好きだよ」


(どの口が言っているんだ。やっと環と別れられて大笑いした癖に)


切なげな笑みを浮かべた悠は、内心自分自身に突っ込みを入れた。


「悠は告白しないの?」

「……いつかはするつもり」

「それなら、高校の近くの神社の縁日に誘ったら?」

「ああ、彼処あそこの?」


悠と瑞穂の母校である菖蒲高校の近くにわりと大きめの神社があり、毎年八月上旬に縁日が催されていた。

小規模だが打ち上げ花火もあり、デートとして利用する生徒もいた。


「移動するのは大変だけど、境内は見晴らしがいいから、絶好のスポットじゃないかなぁ」

「イベントに便乗してみるのも悪くないね。誘ってみるよ」

「あ、今年は台風の接近で日付変わってるから」

「分かったよ」


今朝のニュースで、台風が沖縄に入ったと気象予報士が述べていたことを思い出した。


ふと、悠は瑞穂から視線を外した。

その視線の先には────ふらふらとした足取りで会計に向かう響がいた。


GPSで響がこのカフェにいることは調べ済みだった。

悠は響に気付かない振りをして瑞穂をこのカフェに連れて行った。会話が聞こえる程度の近い席に座り、響の耳に入るようにした。


唇を噛み締めて、必死に涙を飲む響の姿は健気で愛らしい。


四年前、ファミレスで環といる所に鉢合わせた日を思い出す。目尻に涙を溜めて、唇を噛み締めて小さく震える姿を今でも鮮明に頭の中で蘇らせられる。


(その泣きそうな顔をさらけ出さないで。それを見た男を絞め殺したくなるから)


レジを担当した男の店員が、響を見るなり顔を猿のように赤らめて鼻の下を伸ばしている。

響の自覚のなさは非常に危なっかしい。


自分が他のひとを好きだと思い込んで悲嘆に昏れる姿は、可愛くていじらしくて、腕の中に閉じ込めてしまいたくなる。愛しているのは君だと何回も囁いてやりたい。

千、万、億……那由他でも足りないほど、響への気持ちは途轍もなく深く凄烈せいれつだ。


しばらく瑞穂と談笑していると、瑞穂のスマートフォンに着信が来た。画面を見た瑞穂の顔はうっとりとしたものに変わった。

相手は夫の旭からだろう。


「悠、電話してもいい?」

「どうぞ」


瑞穂は嬉しそうにその電話に出た。


破顔させながら、旭と通話をする瑞穂はとても幸せそうだった。



その日の晩、悠はリビングのテレビに映る台風の動向を見ていた。

突然、テーブルに置いてあるスマートフォンに響からの着信が来た。

悠はテレビの電源を消すと、すぐさま出た。


「いきなり電話かけてごめんね?」

「大丈夫だよ。何かあった?」

「あの、私の勘違いだと思うけど……ストーカーの視線を感じるの。怖くて眠れなくて……」


自分に縋る響に狂おしい感情がほとばしる。


(響は嘘をついてまで俺を手放したくないんだね)


悠は八月に入ってから分かりやすい尾行と手紙を送り付けることをパタリと辞めた。なお、響が気付いていない監視と盗聴、盗撮は実行中ではある。

本来なら問題は解決され、仮の恋人関係は解消に至るはずであった。


「それなら響が怖くなくなるまで話しようか」

「うん……っ」


悠は響の望み通り、取り留めのない話をして響の不安を晴らしてあげようと心を砕いた。


「ふふ、悠くんの声聞いたら安心しちゃった」


無防備で甘えるような声音に、鼓動が壊れるほど高鳴った。


「それは良かったよ」


(その声、俺以外の男に聞かせたら赦さないから)


悠は平静を装っていたが、内心は苛烈なまでの独占欲が猛っていた。


「視線くらいで頼ってごめんね」

「響が安心出来るなら、いくらでも頼ってよ」

「ありがとう……あ、そうだ」

「ん?」

「あのね……八月の十二日に悠くんの母校の近くの神社で縁日があるの。良かったら一緒に行かない?」


響からの誘いに、悠は思わず手のひらで顔を覆い隠して天を仰いだ。


好きな子が響自身とは露知らず、カフェで聞いた悠の告白計画を阻止しようとする響のいじらしさに顔面が崩れて溶けてしまいそうだった。


「打ち上げ花火を見てみたいんだけど、一人で行く勇気はなくて……いいかな?」

「いいよ。行こうか」


響からの誘いなら、例え先約があったとしても断って最優先するだろう。


「……っ、ありがとう」


響の声は微かに震えていた。


「当日、響の家まで迎えに行くね」

「お願いします。私、眠くなっちゃったからそろそろ……」

「おやすみ、響」

「おやすみなさいっ」


通話が切れ、リビングに静寂が訪れた。




“ストーカー行為は無くなったのに、私は嘘をついてあの人に甘えている。善意を利用している私は最低だね”


通話を終えて十数分後、響は思いの丈を鍵付きのアカウントにぶちまけていた。


(響が最低なら、俺は極悪非道だな)


これまでしてきた所業を思い起こす。

悠は自分の手で排除された者に対して罪悪感は微塵も抱くことはなかった。

響が嘘をついていたことなど、それと比べると可愛いものだ。


──解放してあげられなくて、ごめんね……もう少し近くに居させて欲しいの……あと少しだけ悠くんを独り占めすることを、許して……。


「くっ、ふふ……」


イヤホンから聞こえた響の涙声の独白に、悠は笑いが堪え切れなくなった。


響の心を掌握する為なら罪悪感を利用することも厭わない。


(当日は忘れられない夜にしてあげる)


窓を開けてベランダに出る。今夜は満月のはずだが、叢雲むらくもが掛かっていてよく見えない。


盗聴した響の小さな嗚咽に、恍惚とした表情で耳を傾けていた。


「逃がさないよ……俺の響、俺だけの白百合……離れられないくらい愛でてあげるからね……愛してる」


悠のこの場にいない響に向けられた甘ったるい声音は、闇夜に溶け込んで、消えた。

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