満たしてあげられるのは俺だけ
朝の通学、通勤ラッシュで混み合う電車の中、響は過密な人口密度などものともせず、寝ぼけ眼でありながらも涼し気な顔で文庫本を読んでいる。
その横顔は周囲の視線を集めるほど艶美であった。瞬く時に動く長い睫毛も惹き付けてしまう。
響の頬に貼り付けられたガーゼは取れて、痛々しい傷はようやく綺麗に消えてくれた。
痕は残らなかったので、悠は響に傷を付けたけばけばしい女の両手の爪を剥ぐ予定であったが、水に流してあげた。
ただその代わりに────
「いやぁっ、あぁっ」
その日の夜のこと。
耳障りな嬌声が、繁華街の外れにある路地裏から響き渡る。
複数の男が代わる代わる
ハンディカメラでその行為を撮影する者もいた。
女が響のせいで彼氏に振られたとのたまっていたので、お慰みを用意してあげた。
またやっかみで響に何かをしでかすかも知れず、下らない理由で響が傷付くのは看過出来ない。
二度と響に手出し出来ないようにしてやらねばいけない。
「あっ、んあぁっ……イ、く……!」
最初は嫌がり抵抗していた女も、次第に快楽に堕ちて、イった目をさせて崩れた顔でよがるようになった。
「うわ、コイツ、漏らした!」
「汚ねえな!」
「つか、メイク取ったらすっぴんブス過ぎ」
「おまえ、本人の前で言うなって!」
女の醜態に、男の下品な笑い声が木霊する。
冷静を取り戻した女は、映像に収められたことに気付き、激しく取り乱しては発狂した。
悠は、そのおぞましい交わりを陰から見ていた。次第に胃液が込み上がってくるのを感じたが、精神崩壊した女の様子を見て、ようやく溜飲が下がったのだった。
その場から離れ、大通りを目指して歩く。
(目と耳が腐りそう……よく排泄物同然の女とヤれるよな)
途中、コンビニエンスストアに寄って購入した緑茶のペットボトルを、一気にあおった。少しだけ胃のムカつきが和らいだ気がした。
悠は極度の潔癖というわけではない。
響以外の女に対して、欲求が著しく欠落してしまうだけだ。
大学の友人から絶食系と呼ばれる所以である。
心だけでなく体も響しか受け付けなくなっていた。
環と体を重ねていた時は、脳内に響を思い浮かべて反応させたものだ。
環の髪型を極力響に似せて、四つん這いにさせしまえば、響を抱いているような気になれた。
いつか
響の初めての相手は勿論、悠以外の何者でもない。その役割は誰にも譲る気は皆無だ。
響を穢そうとする害虫が現れれば、穢らわしい遺伝子を引き継いだ
六月もあと数日で終わるある日の晩。
友人と居酒屋で呑んでいる時、突然、響から電話が掛かってきた。
「ごめん、電話に出るね」
「ついに彼女?」
「残念、弟から」
苦笑いを浮かべながら適当な嘘をつくと、スマートフォンを手に店の出入口へ向かった。
響から電話を掛けてきたのは初めてで、悠はやる気持ちを抑えつつ電話に出た。
「こんばんは。北川さん、今電話しても大丈夫ですか?」
「問題ないよ」
「あの……相談したいことがあって……暇な時でいいので少し会ってくれませんか?」
スマートフォンから聞こえる響の声のトーンが、一気に暗く落ちた。
「深刻そうだね。微力だけど俺で良かったら話を聞くよ。笹山さんの都合が良ければいつでも大丈夫だよ」
「ありがとう、ございます……あの、明後日、私の家でいいですか? 外ではちょっと……」
「分かったよ。あまり無理しないでね」
思いがけない形で、初めて響の自宅訪問を果たすことになり、悠は笑いが込み上げてきそうになった。
それをどうにか押し込めて、純粋に友人を心配する素振りをしてあげた。
二日後の夕方、響の自宅の最寄駅で学校帰りの響と合流をした。
響は悠の顔を見るなり、大きな瞳を潤ませ、泣きそうな顔をさせていた。
よく見ると、顔から血の気が失われ、目元にクマがうっすらとある。
(相当追い込まれているな……)
早く響の今にも脆く壊れそうな心を、癒してあげたい。そんな思いで響の後に続いて彼女の自宅を目指した。
駅から十数分歩いた所に響の自宅はあった。瀟洒な洋風の屋敷だった。
門を抜けると、イングリッシュガーデンが広がる。華美さはないが、目に優しい色彩の花々が和ませてくれた。
客間に通され、響はお茶を淹れに一度離れた。
しばらくして、アイスティーがなみなみ注がれたグラスが乗ったトレーを持って戻って来た。
「どうぞ」
響はグラスを悠の前に置くと、向かい合うように椅子に腰を下ろした。
お互いアイスティーを一口飲み喉を潤した後、響は少し躊躇いを見せたが、「相談事なんですが……」と切り出した。
「北川さんは、ストーカーされたこと、ありますか?」
「ないかな」
する方なら現在進行形で行っている。
しかし、響を守る為に、響の姿を見逃したくない一心で致し方なく行っている……と言うのが、悠の認識である。
「私相手に有り得ないと思っていたのですが……」
響はここしばらく起きたことをぽつりと悠に打ち明け始めた。
「六月に入ってから、後を付けられたり、変な手紙が届いたりするようになりました。手紙と一緒に盗撮された写真も入っていて……古いものだと小学生の頃の写真もあったんです……全て目線が合ってなくて……」
響はまた客間を出て行き、プラスチックのケースにまとめられた手紙の束を持って来た。
「怖くて、五通目から読んでないです……」
悠は数多の中から一通を取り出し、中身を取り出した。文章は筆跡が分からぬように印字されている。
“ずっと見ている。奇麗で可憐な君は数多の男を魅了するから心配事が絶えないよ。でも、俺が排除して守るから大丈夫。早くこの腕で抱き締めて、誰の目にも触れさせないようにしたい。”
便箋にはおぞましい響への執着と愛が綴られていた。
──悠の手によって。
六月に入ってからは、これまでの監視と盗聴、盗撮に加え、響に分かりやすく後を付けたり、手紙を送り付けるようにした。
「おかしいですよね」
響の頭の中は得体の知れぬストーカーで占められている。追い詰められて、今にも壊れてしまいそうだ。目の前の男による仕業だと気付くことなく。
「これは狂気の沙汰だね」
ひとまず怯えている響に話を合わせてあげた。
「警察に相談してみたのですが、実害がないと動けないと言われました……」
プリーツスカートを握りしめる白魚のような手は震えていた。
その上にぽた、ぽた……と雫が落ちた。
「学校も、家も気が休まらなくて……少しだけ吐き出したくなったんです……頼れるのは北川さんしかいなくて……」
“北川さんしかいなくて”
その言葉はいたく悠の心を高揚させた。
(俺を頼ろうとしてくれて嬉しいよ……俺に堕ちてしまえば、楽になれるってことを教えてあげるよ)
そんな悠の心境とは逆に、絶望し切った響は手のひらで顔を覆い隠し、静かに嗚咽を零した。
「もう、つかれた……」
悠は立ち上がり、響の元へ近付くと、後ろから包み込むように抱き締めた。
「ずっと一人で抱えて、辛かったね」
「うっ、うう……っ」
「もう一人で耐えることはないから」
髪を慈しむように撫でると、響の嗚咽は少し大きくなり、子供のように泣きじゃくった。
「いきなり泣いてごめんなさい」
ひとしきり泣いた後、響は少し落ち着きを取り戻した。目が腫れぼったくなっている。
それでも、響の秀麗さは損なわれることはないけれど。
「溜め込まれるよりずっといいよ」
「お陰で楽になれました。もう少し耐えてみます。きっと私に飽きる日が来るでしょう」
(その日は死ぬまで来ないよ)
響は分かっていないようだ。
悠の響への想いは生半可なものではないから。響が縋るまでは、自分に陥落するまでは追い詰めることを辞める気は毛頭ない。
「笹山さん、耐えるだけだと何も解決しないよ」
「ダメ、ですか?」
響はしょんぼりと項垂れ、落胆を露わにさせた。
黙っていれば、響は誰も寄せ付けない高嶺の花のような大人びた美貌をしている。しかし、響が見せる年相応かそれ以下の仕草は、気が触れそうなほど愛らしい。
後にも先にも、その姿を知っている男は己だけであって欲しい。悠は内心乞い願った。
「考えたんだけど……ストーカーに諦めて貰えるように、付き合う振りをするのはどう?」
「つ、付き合う!?」
響の声が裏返った。“付き合う”と言うワードに過剰に反応し、激しく狼狽えている。その
「あくまでも振りだよ。仲のいいところを見せつけたら、ストーカーも諦めるんじゃないかな」
「それで、上手く行くんでしょうか……」
「やってみる価値はあると思う」
響はおろおろと視線を泳がせていたが、恥ずかしそうに小さな声で口ごもった。
「お願いします……」
言質は確実に取れた。
こうして二人は、ストーカーを欺く名目で仮の恋人同士になった。
ゆくゆくはその肩書きを本物に変えていく所存だ。
響の心境を思うと、笑ってはいけないのに、着実に縮む距離にほくそ笑んでしまいそうだ。
「不自然に思われないように苗字呼びは辞めよう」
暗に下の名で呼びあおうと提案した。
ラインのやり取りでお互いの下の名前は既に知っている。
「あの、私、慣れてなくて……」
無理です、と言いたげに、響は潤んだ瞳で訴えかけるが。
「ストーカーに諦めて欲しいでしょう?」
「ううっ……そ、そうですね」
「出来そう?」
響は「頑張ります……」と、ゆっくり頷いた。
「いい子だね────響」
「っ、」
響は頬を染め、顔を俯かせた。
女子校育ちかつ、孤立していているせいでほとんど異性と関わったことのない響には刺激が強いようだ。
ここまで真っ白だと、害虫駆除に骨を折った甲斐があるものだ。いつか深い関係になった暁には自分の色に染めてしまいたい。
「敬語も辞めてくれると嬉しい」
数分程の沈黙が続いた後、響は意を決したように俯いた顔を上げて、真っ直ぐな眼差しを悠に向けた。
「悠くん、でもいい……?」
響が小首を傾げながら呼んだ瞬間、心臓を太矢で射抜かれたような感覚に襲われた。
甘い声で自分の名を紡がれると、血が騒いでしまう。
「それでいいよ」
(呼び捨てでも良かったけど、敬語は取ってくれたし、響にしてはかなり頑張った方だ)
「顔、熱い……」
響はアイスティーが入った冷えたグラスを手に取り、半分飲み干した。
「振りでも恥ずかしいけど、心強いよ。悠くんがいなかったら、私……」
響はそう言ったきり、口を噤んだ。
「響が落ち込むところは放っておけないよ」
「悠くんはとても優しいね……でも、好きな人が出来たら解消してもいいからね?」
(その日が来ることはないよ)
「そういうことは考えなくていいよ。響はもう少し自分のことを優先してもいい」
「ありがとう……お言葉に甘えて、少しだけ頼らせてね」
響は知らない。
目の前の男によって、少しずつ心を目には見えない縄で縛られつつあることに。
万が一、響が悠の狂気に気付くことがあったとしても、もう手遅れで逃げられない。
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