哀憐と傾慕

悠は大学入学を機に、居候していた叔母夫婦の家を出て、一人暮らしを始めた。


叔母夫婦は実の息子のようによくしてくれたし、同い年の従姉妹とは仲は良好だった。実弟よりもずっと兄弟らしいほどに。

しかし、いくら愛情を注がれても、そこに居場所を見出すことが出来なかった。


自分も一家の団欒の中に入って談笑をしているのに、和気あいあいとしたホームドラマを延々観せられているような感覚がこびり付いて離れなかった。

家族に抱く親愛の気持ちは手遅れなほど欠落していた。例え両親が心を入れ替えて悠を愛そうが変わらない。


家を出る時、叔母夫婦や従姉妹は寂しがっていたが、一人暮らしを始めて、ようやく安住の地を得ることが出来た。






夜、帰宅してシャワーを浴びた後、悠はラフな服装でリビングのソファーで寝そべっていた。

右手にあるのは先程密かに抜き取った響のスマートフォンだ。


スマートフォンの画面に指を滑らせる。

画面はロックされていたが、日頃監視していた悠に掛かれば解除など朝飯前だ。


スマートフォンは個人情報の塊だ。

どれだけ監視しても、響の胸の内を百パーセント理解することは出来ない。響の心が読めたらどれだけいいか……幾度願っただろう。

スマートフォンの中身を漁ると、青い鳥のアプリがあった。


響はアカウントを二つ持っていた。


一つは作ったお菓子の写真の投稿で占められていた。

お菓子の写真は洋菓子店パティスリーで売られてもおかしくない出来栄えで、数百以上の反応があった。


もう一つは、鍵付きの学校の愚痴を吐き出す、所謂裏アカウントだった。


“別室登校したい。でも担任がウザいくらい熱血で根性論を持ち出すから相談は無理”

“体育やだやだやだ。二人組とか憂鬱だ。ずっと見学していたい”

“私が三股しているって噂を知った。男の人と話したことないのに、彼氏いたことすらないのに”

“ぼっちつらい……”


呟きはネガティブな内容ばかりだ。

響は悠によって奈落に突き落とされ、苦しみ喘いでいる。


(もうすぐ楽になれるよ、響)


悠は目を細め、心の中で呟いた。


夜の八時を半分すぎた頃、響のスマートフォンに着信が来た。

画面には『自宅』と表示されている。


(やっと、来た)


すぐに出たいところだが、数コール鳴った後、それに出た。


「もしもし……」


鼓膜を震わせるのは甘く可憐な声。


最後に声を聞いたのはほんの数時間前だというのに、余程待ち侘びていたのか気分が高揚する。

響の声は依存性のある嗜好物のようだ。


「このスマホの持ち主ですか?」


悠は極力穏やかな口調で話すように努めた。


「はい……あの、もしかして今日助けて頂いた方ですか? 私が分かりますか?」

「ああ、あの時の」


さも今思い出したかのように振る舞うと、「良かった」と言う小さな独り言が聞こえた。


「貴方が拾ってくださったのですね。重ね重ねすみません」

「俺こそすぐに渡せなくてごめんね。追いかけたんだけど、電車が行っちゃって」

「私が鈍臭いばっかりに迷惑かけて申し訳ないです」


電話口での響は、数時間前面と向かっていた時とは違い落ち着いていて淀みのない口調だった。

口喧しさは一切なく、お淑やかで育ちの良さが伝わる。


「今日は流石に遅いから、渡すのは明日でもいい?」

「大丈夫ですよ。どこで会いましょうか」

「分かりやすく今日別れた駅にしようか?」


各々の学校の近くだと、目立ってしまう。響の性格上、気後れしてしまうだろう。


「そうしましょう。学校が終わったらすぐに向かいますね。四時位になると思います……名乗るのが遅くなりましたが私は笹山と言います」

「俺は北川です。笹山さんまた明日」

「北川さんですね。そろそろ失礼します。おやすみなさい」


明日会う約束を取り付け、お互い名乗った後、通話を終えた。


(俺が言うのもあれだけど、響は人を疑うことを知らなさ過ぎやしないか)


ホーム画面を見つめながら、響の危うさに一抹の不安が過ぎる。


響はずっと悠がスマートフォンを持っていたことに対して疑問に思っていなかったようだった。普通なら交番に届けろと思う。実際は盗んだのだが、拾い主に悪用されやしないか不安になるはずだ。

現に悠はスマートフォンの中身を勝手に覗き、響の個人情報を暴いた。


あまりにも無垢で無防備な響。

害虫駆除をしてあげなければ、響はとっくに男共の餌食になっているに違いないだろう。


(響は俺がいないとだめな子だ……これから少しずつ刷り込ませて、ゆくゆくは依存させていこう)


「楽しみだよ……ふふ、あはは……っ」


悠の小さな笑い声は、誰もいない空間に溶け込んだ。




次の日。

悠は午後四時の五分前に待ち合わせの駅前に着き、響を今か今かと待っていた。

しかし、四時を十五分過ぎても響は現れて来ない。


何かあったのだろうかと思い、GPSで響の位置を調べると、まだ学校にいることが分かった。

イヤホンを付けて、盗聴内容を聞いてみると、響の声はなかったが、代わりにホチキスの音が延々と聞こえた。

プリント類を纏めて留める作業しているようだ。


──笹山さん、手伝ってくれてありがとう。会議終わったからもういいよ。


教員らしき男の声が聞こえた。


(教え子に自分てめえの仕事を押し付けるな)


悠は顔の知らない教員に内心毒を吐く。

響に会える時が延ばされて腹立たしいが、何はともあれ、昨日のようなトラブルに遭っていないことに安堵した。


響が現れたのは待ち合わせ時間より一時間過ぎた後だった。


「北川さん、だいぶ待たせて、ごめんなさい……」


相当急いでいたのか、響は額に汗を滲ませ、荒い呼吸を繰り返している。


「そこまで待っていないから気にしないで。笹山さん、大丈夫?」

「っ、はい……」


(これはどう見ても大丈夫じゃないな)


響は人よりスタミナがない。

短距離走は早い方だが、長距離になると最後から数えた方が早いほど遅い。

夏日の今日、倒れやしないかヒヤヒヤしてしまう。


「今日は暑いし、お店に入って休憩しようか。スマホはその時でいい?」

「はい……」


響の呼吸が落ち着いた後、二人は駅からほど近いカフェを目指した。

響の足元がおぼつかない。悠は響が転ばぬように見守った。




店内に入ると、二人は店員に案内されたテーブル席に向かい合って座った。

渡されたメニューを広げて飲み物を選ぶと、響はアイスココアを選んだ。写真はクリームが乗っかっている。悠はアイスティーを選ぶと、スイーツのメニューが載ったページを広げた。


「デザート食べない? 疲れた時は甘いものでしょ」


昨日はけばけばしい女共のせいで食いっぱぐれたのだ。響がそのページを見た瞬間、緊張の色が濃かった瞳は僅かに和らいだ。


「北川さんも選んでください。お礼も兼ねて私にご馳走させてください」


響は純粋にお礼がしたいようだが、大学生の悠は年下で高校生の響に払ってもらうことに対して、男の沽券に関わると感じた。


「そこまでしなくていいよ」

「でも、迷惑かけましたし、今日なんて待たせてしまったから……」

「俺は全然気にしてないよ。正直、高校生に出してもらうのは少し抵抗があるかな。もうすぐ二十になるから」


結局、折衷案として自分の注文した分だけ払うこととなり、響はアイスココアを辞めてアイスミルクティーに変更し、いちごのタルトと一緒に注文した。


「スマホ返すね」

「ありがとうございました」


スマートフォンを響に渡すと、響は少し安堵した表情をさせながら受け取った。


「友達と連絡取れなくて不便だったよね」


響の表情が強ばっていく。

悠は、孤立させておきながらあえて響の地雷を踏み抜いた。


「そんなこと、ありませんよ……私、連絡はあまりマメじゃないんです」


響は悠から目をそらしながら寂しげにぽつりと呟いた。その姿は萎れた花のようだった。

その弱々しさは庇護欲をいたく刺激させる。


程なくして注文した二人の飲み物といちごのタルトが運ばれた。


「いただきます」


手を合わせて、響はいちごのタルトをフォークで一口分掬い口に含んだ。


「美味しい」


寂しげな表情が少しだけ柔らかいものになった。


(可愛い……スマホで撮りたい)


愛らしいと思うと同時に、世間にさらけ出して欲しくないと願わずにいられない。

現に辺りにいる男の客が響に釘付けになっている。稀な美しさと可憐さを持つ響は実に罪深い。


「甘いもの好きなの?」

「あ、はい……好きです」


心臓に悪い。

甘いものに対する言葉と分かりながらも、『好き』と言う言葉を投げかけられると、平静を保てなくなる。


「やっぱり、食べている時幸せそうだったよ」


悠はその響に抱く狂おしいほどの感情を悟られぬように、微笑ましそうに笑って見せた。

響は恥ずかしいのか、両方の手のひらで頬を覆い隠した。


(皆、噂に騙されて無様だな。響はこんなにも純粋無垢の塊なのに。まあ、響の本当の姿は俺だけが知っていればいい──響は俺だけがいればいいんだから)


「恥ずかしい……私、食べるのも好きなんですが、作るのも好きです」

「すごいね。昔従姉妹とシュークリーム作ってみたことがあったけど、生地がぺしゃんこになってね」

「難しいですよ。私も最初は失敗しました」


悠はお茶を飲みながら、響のお菓子作りの話に耳を傾けていた。珍しく饒舌な響の声は抜かりなく録音済みだ。


夢中になるあまり、時間はあっという間に過ぎていた。店内は混みあっており、二人は各々の会計を済ますと店を後にした。


「楽しかったです……誰かとこんなに話したのは久し振りで」


目を細め、僅かに口角を上げる響を見た瞬間、悠の鼓動が高鳴った。

四年前に見た花のように綻ぶ満面の笑顔が思い起こされた。


響は、悠との会話で少し孤独が癒されたようだ。


「俺も同じだよ。笹山さんが良かったら、またこうやって会いたい」


こんな台詞を、日頃悠を絶食系と揶揄やゆする大学の友人が聞けば驚くだろう。


「いいんですか……?」


響は少し瞳を丸くさせ、瞬きを繰り返すと、恥ずかしそうに目を伏せた。


「ライン交換しようか」

「はい……っ」


響は十八歳に達してしないので、二次元バーコードを読み取っての交換となった。


カフェを出ると、二人は昨日と同じように駅まで一緒に歩き、そこで別れた。


響を陥落させる最初の一歩を踏み出した瞬間だった。

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