つかまえた
──酷いよ……響……私は親友だと思っていたのに、鬱陶しかったんだ。
──違うよ。由加、信じて……っ。あたしは……っ。
──うるさい! もう話しかけないで! あんたなんか友達でもなんでもない!
──待って、由加……!
中学二年の後半、響は幼なじみの由加を虐めた首謀者として仕立て上げられた。
己の手を汚さず、他の者に命令をして、数々の嫌がらせを行ってきた……ということになっており、周囲はそう信じ込んでいる。
案の定、響は姑息で最低な悪女として非難され、居場所をなくした。
響にとって中学最後の一年間は、地獄と言っても過言ではなかった。正義感を暴走させた数多の生徒により完膚なきまでに叩きのめされた。
本当は何もしていないのに。
響は逃げるように公立の高校を外部受験した。
遠くから監視していた悠は、ほぼ望み通りの展開にほくそ笑んだ。
(共学を選んだのは癪だけど、悪行を吹聴しておけばすぐに孤立するだろう)
その“悪行”は全て悠が作り上げたシナリオであり、周りは誘導されてそれぞれの役割を演じさせられたものだ。
卒業式の日、悠は響の自宅へオレンジの百合の花束を注文し、由加の名義で届けさせた。
オレンジの百合の花言葉は『憎悪』。
──うっ、ひっ、く……ゆかぁ……。
イヤホンから聞こえた響の咽び泣く声は、何度も聞いていたくなるほど美しく奏でる音楽のようだった。
(可哀想な響。もうすぐ俺が悪夢を終わらせてあげるよ。でも、今はまだ奈落に堕ち続けていて)
悠はスマートフォンの画面に映る、涙を流しながら百合の花束を抱き締める響をうっとりと見つめていた。
頬に影を落とす長い睫毛も、雪のように透き通った白磁の肌も、絹糸のような濡れ羽色の髪も、噛み締めている薄紅色の唇も寸分の狂いなく美しい。
彼女が抱く鮮やかな百合の花は彼女の引き立て役でしかならない。
「愛してるよ。響」
悠は画面に映る響にそっと口付けを落とした。
桜の花の蕾が綻び始めた四月某日。
響は高校一年生になった。
濃紺のブレザーと同色のプリーツスカート、ネクタイと言う都立
胸まで伸びた真っ直ぐな黒髪はばっさり切られ、ショートボブとなった。身長は一六五センチを越し、外面的にはすっかり大人の女性となっていた。
通学路の途中にある桜の並木の下で佇む姿は、日本神話に出てくる女神・
その周りを取り巻く空気は神域のように清らかで厳かだ。
盗聴だけでなく盗撮にも手を染めた悠は、その姿をスマートフォンで連写した。
盗撮に使っているスマートフォンはプライベートとは使い分けており、周囲に知られないように徹底してある。
響の画像は遡れば初等部の頃から膨大にある。それらは全て目線が合っていない。
ふと、悠は響から腕時計に視線を移し、溜息を吐いた。
「時間切れか」
ずっと響を見つめていたいが、悠とて学業を優先せねばならない。
現在悠は、某国立大学の二年生となった。
響の監視と害虫の駆除に力を尽くしながらも、優秀な成績を修めていた。
将来、響を養う為には怠ってはならない。
それでも、響との
(またね、響)
悠は後ろ髪引かれる思いで踵を返し、その場を後にした。
響が高校を入学して一ヶ月以上が経過した。
悠があらかじめ誠稜高校の裏サイトに響の中学時代の悪行を書き込みをし、響は高校でも見事に孤立した。
中学時代のような虐めはないが、クラスメイトから爪弾きされて距離を置かれている。潔白を主張したが誰も信じる者はいなかった。
響は毎夜枕を濡らした。それでもめげずに学校に通い続けていた。
響は愚かなまでに真っ直ぐだ。
しかし、気丈に振る舞っていても、次第に響の顔から感情は消え去り、死んだ目をするようになった。虚ろな瞳で通学路を歩く姿は
初夏のような暑さが続く五月下旬のある日の午後。
「あの……少しいいですか?」
悠はその日の大学の講義を終え、GPSを頼りに響の元へ向かおうとする矢先、見知らぬ女子学生に声を掛けられた。
長い髪をハーフアップにし、ナチュラルメイクを施した彼女は、学部学科は異なるが、入学以来つるむ友人が可愛いと言っていたのを思い出した。
悠にかかれば、どんな美少女も美女も響以外の女は路傍の石でしかない。
「いいよ」
至福の一時を邪魔された苛立ちを隠しながら、愛想良く応じてやった。
彼女に連れて行かれた先は、誰もいない小さな講義室だった。
「入学式で見掛けた頃から、北川くんのことが好きでした……」
真っ赤な顔をさせて、告白をする彼女。
他の男ならころりと落ちるが、悠は何も感じなかった。
高校時代の終盤は環が忘れられないという
響に関わると異常性を現す悠だが、見てくれは桁違いに整っていた。
栗色の柔らかな髪、明るめの琥珀色のアーモンドアイ、通った鼻梁、桜色の唇。通りすがった者は一度は振り返る程の美形だ。
物腰柔らかな王子様のような風貌の悠が、ストーカー気質で、響に近寄る人間に制裁を容赦なく下す残忍な男とは誰も露ほども知らないだろう。目の前にいる彼女も。
彼女は悠の目を見つめて、震えそうな声で告げた。
「よかったら……私と付き合ってください」
「ごめんね。今は誰とも付き合う気はないんだ」
間髪入れずにノーを示した。
彼女かつ配偶者にしたいのは響しか考えられない。
悠の返事に、彼女は涙を浮かべて顔をくしゃりと歪めた。
「分かりました……話を聞いてくれてありがとうございますっ」
彼女はそう言うと、涙は決壊し、悠に見られたくなかったのか脱兎のごとく立ち去って行った。
「十五分無駄にした」
悠は冷徹に舌打ちをし、一刻も早く響の元へ向かおうと講義室を後にし、歩みを早めた。
基本響の放課後の行動パターンは、まっすぐ帰宅することが多い。時々、学校から近い書店に寄るか、電車移動をしてカフェに立ち寄りスイーツを堪能していることもある。
GPSを見てみると、今日はいつも寄るカフェを目指しているようだ。
そんな日は、悠もカフェに立ち寄り、離れた席から響を観察する。
ケーキを食べている時の響は、生気のない表情が和らぎ、わずかに幸せそうに見える。
先日は、うっかり口の端にクリーム付けてしまい、恥ずかしそうに拭っていた姿は癒された。
動画に収めたい衝動を抑えて、網膜に焼き付けたものだ。今でも鮮明に思い出せる。
しかし、GPSが示す、カフェを目指していた響の歩みは突然ピタリと止まった。
何事だと思い後を追えば、
物陰からそっと様子を窺うと……。
「あんたのせいでアタシ振られたんだけど! どう責任取ってくれるの!?」
「人の彼氏を誑かすなんてどういう神経してるの?」
恐らく響と同年代だろう。下品に着崩した他校の制服姿の女三人が響を
「誑かした? 私はその人を知りません」
「しらばっくれるなよ!」
女は響の頬を激しく引っぱたいた。
女の派手に彩られた長い爪が引っ掛かり、響の白磁の肌に二筋の
「あー傷付いちゃった!」
「もっとやっちゃえって!」
女に取り巻く友人がげらげらと笑いながら囃し立てる。
女は響の胸倉を掴みフェンスに押し付けた。そしてまた響を引っぱたこうと汚らわしい手を高く振り上げた。
一見すると響は涙一つ流さぬ無表情だが、微かに震える手は怯えていることが伝わる。
女の手が振り降ろされる寸前、悠はその腕を掴んだ。
響を傷付けた女が腹立たしいと思うと同時に、どうでもいい女の話に応じた自身に嫌悪した。
無視してしまえば響が傷付くことは未然に防がれたのに。
「痛い! 痛いいいーっ!」
ギチギチと手加減なしで捻りあげているせいで、女は耳をつんざくような金切り声で痛みを訴えている。
余りにも耳障りな雑音だったので、すぐに手放した。
「強く掴んでごめんね。この子、俺の親戚なんだよ。だからこういう真似は辞めて欲しいな」
柔和な声音を心掛けると、女と取り巻きの友人は悠の顔を見るなり、頬を染めて魂が抜け落ちたように放心状態になっていた。
女は悠に腕をきつく捻り上げられたことを忘れているようだ。
「ごめんなさーい。私らちょっと喧嘩しただけなんですー」
女と取り巻きはヘコヘコしながら逃げるように去って行った。
三人が居なくなると、響はへたりと崩れ落ちた。腰を抜かしたようだ。
華奢な体が恐怖に震えている。
「ありがとう、ございました……」
深い青の瞳は微かに潤んでいた。
左頬にある二つの傷から血が垂れて痛々しい。
「立てそう?」
響はそう言われて立とうとするが、足に力が入らないのか自力で上手く立ち上がることが出来ずにいた。
手を差し伸べると、響はおずおずと躊躇った様子で悠の手を掴んだ。
響に直接触れたのは四年振りのことだった。
「すみません……」
「結構血が出てる。痕が残るといけないから今から病院に行こう」
「あの……」
丁度午後の診察が始まる頃合だ。
近辺にいくつか病院があることは把握済みだ。悠は有無を言わさず響を連れて行った。
(あの女、後で
大事な大事な白百合を痛め付けた愚か者への制裁を腹の中で考えながら──
近くの病院の待合室で待っていると、診察を終えた響が戻って来た。
頬にガーゼを当ててテープで留められている。その姿は痛々しく、見ているこちらも胸が痛い。
「傷は多分消えるそうです。万が一残ったらいい形成外科を紹介してくれると言っていました」
「消えるといいね」
響が会計を済ました後、待合室は混み合ってきたので二人はすぐに病院を後にした。
傷があろうがなかろうが響への気持ちは微塵も変わらない。
しかし、響にこんな仕打ちをしたあの女は赦すことが出来ない。万が一傷が残ることになったら、女の両手の爪を全て剥ぐくらいはしてやらないと気が済まない。
密かに女への報復に思いを馳せていると、「あの……」と不意に鈴を転がしたような声が耳に届いた。
「見ず知らずなのに助けて頂いてありがとうございました」
(思い出さなかったか……)
響の初対面同然の振る舞いを、悠は少し残念に思った。当時は己を忘れた響を恨んだりしたが、今はそのことを責めるつもりはない。忘れ去られても響を愛することは辞められなかったから。
「あんなに怖がっていたら放って置けないよ」
「……助かりました」
響は悠を一瞥すると、目を伏せた。
「良かったら駅前まで送ろうか? あの人達、近くにいてまた絡まれるかも知れない」
響は視線をさまよわせ、尻込みしているようだったが、少しの沈黙の後、「お願いします……」と小さく頷いた。
駅までの道のりを歩く間、響は無言だった。
悠は気付かれないように、響の横顔を盗み見ていた。
駅はあっという間に辿り着いた。
「ありがとうございました。さようなら」
響はぎこちなく悠にお礼を告げると、駅構内に吸い込まれて行った。
姿が見えなくなり、寂しさを覚えた。
しかし、悠はこれっきりにする気は毛頭なかった。再び関わる機会の準備は抜かりなくしてある。
(また会える日が楽しみだよ)
密かに抜き取った響のスマートフォンを、見つめながら笑みを深める悠の顔は悪人そのものだった。
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