湧いてくる害虫を殲滅するには時間が足りない
悠は中学から叔母夫婦の家に居候をしている。
両親は弟を偏愛し、悠には無関心で衣食住の最低限の養育以外は放棄されてきた。見兼ねた叔母が住まわせてくれた。
居候してからは一度も実家へ帰省していない。
両親も両親で仕送りを送るだけで、顔を見に来たことは高校三年になった今も一度もないのでお互い様だが。
九月の連休中のある日。たまたま叔母夫婦も同い年の従姉妹も家を空けており、環が泊まりに来た。
二人は受験生なので、自室で一緒に勉強をしていた。
進路も違えば、希望の学部も異なる二人は各々で集中している。
日付があと数分で変わる頃、沈黙が環によって破られた。
「ここに来る前に実家から電話があったの……」
参考書のページに向けられていた視線を環に移すと、環は先程より青ざめた顔をしていた。ペンを握り締める右手が僅かに震えていた。
「卒業したら地元に戻れって言われたの……進学したいなら地元の短大にしなさいって……」
環の垂れ目がちな大きな瞳が揺れた。
環の実家は、歴史のある旧家で、現代のご時世にも関わらず昭和の価値観がまかり通っている。
両親は環の上京をよく思っておらず、中学を卒業するまで揉めた……と以前教えてくれた。
「環はどうしたいの?」
「なにそれ……悠くんは私と離れてもいいの!?」
「違……」
「戻らないでって言ってくれてもいいじゃない! 私がいなくなっても平気なんだ!」
悠の返答が気に食わなかったのか、環は感情的な物言いになる。
穏やかでにこやかな環の初めて見る表情だった。
(面倒くさい……)
これが響なら、即答で戻るなと懇願しているが、環だと鉛を呑み込んだように重苦しくなる。
二人の間に沈黙が続き、暗雲が立ち込めたようなどんよりした雰囲気が広がっていた。
「ごめん……私イライラしてた。ちょっと頭冷やしてくる」
環は俯いたまま、悠の自室を駆け出した。
後を追いかけると、靴を履き終えて今にも出て行こうとする環。
「待って」
悠はそんな環を引き留め、そのまま抱き締めた。
「悠、くん……」
振り向いた環の目尻に大粒の涙が溜まっている。
「環の気持ち考えてやれなかった。本当は俺も離れたくないよ。だけど、環のこと束縛したくなくて……」
「困らせて、ごめん、ごめんね……っ」
環は悠の胸に顔を埋めて、さめざめと泣いた。
翌日の午前九時過ぎ。二人は情事後のまま眠ってしまい、遅めの朝を迎えた。
「おはよう……」
「おはよう、環」
悠は環に柔和な笑みを浮かべていたが、腹の中は苛立ちと焦燥感が渦巻いていた。
(今、こうしている間に、あの子に
あの子とは言わずもがな響のことである。
去年、響は百合ヶ丘の中等部に上がり、現在二年生となった今は一六二センチまで背が伸びて大人っぽくなった。持ち前の美しさは衰えを知らず、更に磨きがかかっている。
ただ、それに比例するように魅了される男が増えてきた。
悠は響に魅了されて近寄る男を、ユリクビナガハムシに例えた。害虫呼ばわりする
実際の百合の花にその害虫が
無垢で可憐な白百合は、なん人たりとも触れさせてはいけない。
悠はその虫を一匹も残さず取り除き、踏み潰して行くように、水面下で排除を行ってきた。
一人は数ヶ月は日常生活が困難なほどの大怪我をした。
一人は解雇や倒産などの理由で家が潰れた。
一人は身内に汚職や犯罪が発覚し、近隣から村八分に遭うようになった。
過剰な報復とも言える行いだが、響と関わったことに対する相応の罰だと悠は大真面目に思っていた。
害虫駆除に力を尽くしている内に、環と過ごす時間が勿体ないと思うようになった。この時間を響の為に充てたい。
(そろそろか……)
悠は潮時だと思った。
環の家庭環境のことも密かに調べ済みだ。
環は打ち明けたことはないが、親が決めた婚約者がいる。
相手は環の実家と同等の家柄の息子で、今年の春地元の国立大学を卒業後、某地方銀行へ入行した銀行マンであった。
絵に描いたような真面目で善良な男である。
こちらから別れを告げれば、環は拒絶をし、昨夜のように癇癪を起こすやも知れない。
悠としては要らぬ苦労に骨を折りたくない。
環から別れを告げるような状況を作り上げてしまえばいい。
「まだ、眠いよ……勉強はお昼からでもいい?」
寝ぼけ眼の環は悠に甘えるようにふにゃりと笑いかける。
「いいよ」
悠は浮かべてしまいそうな企みを含む黒い笑みを見られないように、環を抱き寄せた。
ウトウトと微睡む環の艶やかな黒髪を慈しむように撫でた。その手は真っ黒に汚れ切っていた。
一ヶ月以上が過ぎて、十月三十一日を迎えた。
仮装した者で繁華街がごった返しするこの日は、愛してやまない響の誕生日であった。
十四歳の誕生日を迎えた響は、友人の由加やクラスメイトにお祝いされている。
昼休み、クラスメイトが用意した手作りのショートケーキを美味しそうに食べている様子は、盗聴した音声だけでもとても和んだ。
いつかは直接祝ってやりたい。
お菓子作りは、得意な響には敵わないが、料理は中学から従姉妹と分担でやってきたから振る舞ってやれる。
愛する響が生を受けたおめでたい日であるが、奇しくも環の十八歳の誕生日でもあった。
放課後、環と落ち合って誕生日を祝う予定だった。
「環、誕生日おめでとう」
カフェに場所を移すと、悠は可愛くラッピングされた物を環に差し出した。中にブレスレットが入っている。
これまであげた環へのプレゼントは、本当は響にあげたいものばかりだ。
環に渡すものなのに響のことを考えながら選ぶ時間は、悠にとって非常に充実したものだった。
「可愛い……! 悠くん、ありがとうっ」
環はそんな悠の思惑など知る由もなく、早速ブレスレットを手首に付けては無邪気に喜んでいた。
「本日はお誕生日おめでとうございます」
しばらくしてカフェの店員が運んできたのは、一切れのチョコレートケーキ。ケーキが乗ったプレートは誕生日仕様にデコレーションされていた。
予め席を予約する際に、注文しておいた。
「あ、ありがとう……っ」
環は涙ぐみながらも満面の笑みを浮かべ、喜んでいた。
カフェを出た後、二人は手を繋いで街中をぶらついていた。
ハロウィン仕様に彩られたイルミネーションが幻想的だった。
「悠くん、座ろう。ちょっと疲れちゃった」
環に促されて、人通りの少ない公園の中へ入り、ベンチへ並んで腰掛けた。
「私達、付き合って二年以上になったんだね」
高校一年の七月初旬。環の告白がきっかけで付き合い始めた。
環は単身で悠の通う高校の近くで待ち伏せをし、「好きです。私と付き合ってください」と真っ赤な顔をさせて告白した。
「そうだね。環に告白された時は驚いたよ。こんな可愛い子が俺に?って」
心にもない言葉がスラスラと口から出てくる。自分は詐欺師になれるのでは、と思ってしまうほどだ。
もっと早く響と出会えていれば丁重に断っていただろうが、どう足掻いても過去は変えられない。
「私、幸せ
「だった?」
悠がオウム返しをすると、環から笑顔が消え去り、真剣な顔付きに変わった。
「私と……別れてください」
「どうして……? 俺に至らない所があった?」
悠は、さも納得がいかないと言いたげに眉を下げ、縋るような眼差しをさせると、環は悲しげに目を伏せた。
「悪くないよ……悠くんは悪くないの」
私が悪いの、と呟くと、環は躊躇いながらも打ち明け始めた。
「ずっと隠していたけど、私、婚約者がいるの」
「婚約者……?」
悠は目を見開き、驚いた素振りをしてみせる。信じられないと言いたげに訝しんで。
「これからも悠くんといたいよ……でも、婚約者と結婚しないと実家が危ないの……軽蔑したでしょ。婚約者がいるのに、悠くんに告白して付き合った。私のこと罵ってもいいよ」
環はそう言った後、黙りを決め込み、顔を俯かせた。
「俺が親と疎遠じゃなかったら、実家に頼ってでも環を引き留められたのに……ごめん、俺が無力なばかりに」
「悠くんは付き合った頃から優しいね。最低な私なんかにそう言ってくれるだけで充分だよ……ごめん、なさい……」
嗚咽交じりに何度もごめんなさいと繰り返す環を、きつく抱き締めた。
ようやく落ち着きを取り戻した環は、俯いた顔を上げた。
「最後にキスしてほしい。一生の思い出にさせて」
環の切実な願いは叶えてあげようと、環に触れるだけの口付けをした。
唇が離れると、環はすくっと立ち上がった。
環の目は少し腫れぼったいものになっていた。
「私、先に帰るねっ、悠くん、今までありがとう……っ、さようならっ」
足早に立ち去る環の背中を悠はただ見つめていた。
環が居なくなった数分後、悠は顔を俯かせて肩を震わせていた。
環との別れに涙していた──訳ではない。
「ふふ……っ、あははは……!」
突然、高笑いをし始めた。
人がそれを見れば、誰もが悠を気が触れた人だと認識するだろう。
事が上手く運んだ安堵と、ようやく本当の意味で響を一途に愛せる人になれた歓びが悠の心を満たしている。
それによって脳内から快楽物質が溢れ出し、笑いが止まらなくなった。
しばらくは、親の事情で環と引き離された哀れな男、別れても環が忘れられない未練がましい男を演じていく所存だ。
響以外の女の好意は煩わしいものでしかない。
「あと二年か……」
ひとしきり笑った後、悠はぽつりと独りごちる。
今度は同じ過ちを繰り返す訳にはいかない。
(
悠は響の幼なじみの顔を思い浮かべた。小柄な西洋人形のような女。
響のことをよく知り、一番近い場所にいる女である。何より響が一番信頼し、心を開いている存在だった。
そんな由加は、女とて目の上のたんこぶでしかない。
二人の友情を断絶させてしまおうか。それとも外に出られなくなるほど精神的苦痛を由加に与えてやろうか。
二人を引き離してしまえば、響は心の拠り所を失うことになるだろう。
支柱のない百合の茎がポッキリと折れてしまうように。
更に悠はこんな考えに至った。
いっそのこと、響を孤立させて精神的に追い込ませてしまおうと。
ゆくゆくは、味方は自分しかいないのだと思い込ませ、依存せざるを得ない状態に運んでいこうと。
(最高じゃないか)
響が死んだ目で己に縋る様子を想像し、悠の笑みが黒く深まっていった。
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