第86話
「いつお会い出来るか分からず、突然の無礼をお許し下さい」
江戸で、自分を宮様と呼んだ者は初めてだった。
窓から出したままだった手に、男はそっと自分の手を添えると「冷えますから」と、部屋の中へ押し込む。
訝しげに、それでも目が離せず思わずじっと将軍を見つめてしまう。
きまり悪げに目をそらした将軍は、微かに微笑みそっと囁く。
「・・あなたのような方で、よかった」
そう言い残すと、再び雪の降る庭へと走って行った。
姿が見えなくなるまで窓の外を眺めていた凰稀は、我に返る。
胸が早鐘のように波打ち、苦しい。
指先が燃えるように熱いのは、そっと触れた温もりか、それとも冷たい雪のせいなのか。
硬く握られた雪のだるまから雫が落ち、凰稀は慌てて床の間の花器にそれを飾った。
雪を見たことがないと思い、見せに来てくれたのだろうか。
頬までが熱い気がし、凰稀は誰もいなくなった窓の外をもう一度見返す。
「宮様、どうかなさいました?」
そっと襖が開き、侍女が火鉢を持って現れた。
「初雪ですね、冷え込みますので火を持って参りました」
正直、火の温もりが恋しくはあったが凰稀は首を振る。
「今宵は大丈夫」
「でも・・・」
「あれが溶けてしまうから」
侍女は凰稀が合図した雪だるまを見て目を丸くしたが、何も言わず火鉢を持って次の間へ下がった。
宗光と名乗った将軍の姿を、凰稀は繰り返し反芻した。
京で何度も受け取った文を読み返そうと小箱の中を探すが、そのほとんどを読まずに火に投げ入れていた事を思い出す。
雪明かりの中で束の間ではあったが、武人の無骨さを感じさせない男であった。
耳に残る優しい声をもっと、早く確かめたいと思った。
目が合うと照れ臭そうに微笑み、視線を逸らされる。
それが淋しいような、物足りない気持ちが溢れてくる。
あのお方が、将軍徳川宗光。
無理足り降嫁させられた、皇女の夫となるお方・・
早くもう一度お会いしたい。
無粋で野蛮な江戸の武人、そうではないのだとただ確かめたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます