第70話
赤くなった鼻をすすりながら、頬に涙を伝わせながら見上げてくるひろむの瞳を見つめ
「あなたはここに、必要な人なんです」
瀬奈はひろむの手を強く握り締め、ゆっくりと伝えた。
上様や真咲達を頼みます、と告げる瀬奈に、ひろむは驚きを隠せない。
「私が?」
瀬奈は大きく頷き、ひろむの額に自分の額をそっと合わせた。
閉じられた瞳と、額に感じる小さな温もりから瀬奈の心が伝わってくる。
ゆうひと共に大奥を去ってしまう瀬奈。
愛した二人に置き去りにされる喪失感に、うちひしがれていたひろむであったが、そうではなかった。
瀬奈の抱える大きなものを、少しでも預けてもらえた気がした。
「私の犬も置いていきます」
自分を置いて去るのではなく、託してくれた事が嬉しかった。
ただ嬉しくて、また涙が溢れてしまうけれど、先ほどの涙とは違う。
ひろむは瀬奈の手をぎゅっと握り返す。
「上様がいなくなって、涙もろくなったわ」
そう呟いて笑うひろむの、短くなった髪を撫でながら、瀬奈は自分の髪から簪を外す。
瀬奈が気に入っていつも身につけている、珊瑚の玉飾りの付いた銀の簪。
それをひろむの帯の間に挿し込むと
「もう、髪には挿せませんけど」
ひろむは、驚きで目を丸くした。
瀬奈から何かを貰う事など、想像もしていなかった。
手に取った簪は瀬奈らしい、飾り気はないが繊細な美しい品。
落飾し髪を切った際に、持っていた簪や装飾品の類は全て次女達に与えてしまった。
それは女であることを捨てて生きる覚悟の証であったが、いつも瀬奈と共にあった簪を手にし、ひろむの胸は驚くほど締め付けられた。
この簪で髪を飾る事は出来ないが、女の気持ちを捨てる必要はないと言われたようで嬉しかった。
簪をそっと帯に挟み込み、熱く震える気持ちが抑えられず、ひろむは心から微笑んだ。
その瞳に吸い込まれ、息を呑む瀬奈。
初めて目にしたかもしれないひろむの笑顔に、何も考えられずただ瀬奈は唇を重ねた。
強く抱き締め「終わりに出来ないのは、私の方です」と囁く。
「待ってる」
瀬奈の胸に顔を埋め、ひろむは小さくそれだけを囁いた。
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