第62話

それだけ告げると、ゆうひは胸を押さえ酷く咳き込んだ。


慌てるひろむの背を安心させるように叩いて、あさこを呼んでくれないか?と微笑む。


ひろむにだけは、死に取り付かれながら生きてきた顔を見せたくなかった。


「瀬奈!いるのか?」


ゆうひの背を擦りながらひろむが呼ぶと、薬品を携えた瀬奈が入って来る。


薬を浸した布をで口元を覆うと、ゆうひの呼吸が落ち着く。


「ひろむ、外してくれ」


嫌だとゆうひの手を握り締めるひろむに苦笑しながら、瀬奈は言う


「御台様の前では、上様が横になって下さいません」


何かあればお呼びしますからとひろむを退室させると、息を付きながらゆうひは床に着いた。



思い残す事はないように溜息をつくゆうひを、切なげに見守る瀬奈。


「あさこ」


「はい」


「まだ、ひろむを抱ける気がする」


いつ止まるかと思うほど巡らなかった血や鼓動が、ひろむの傍では逸る。

悪戯っぽく笑うゆうひを、心底呆れたようにあさこは見下ろした。


「あの男はどうなった?」


「姿を消しましたが、恐らく近くに潜伏しています」


「そうか」


目を閉じ、様々な思いを巡らせるゆうひ。


「ひろむを、里に帰してやることはできないか?」


将軍の身近の女達は死ぬまで大奥で囚われる。

仮に幕府が倒れ、大奥が解体されるような事になれば分かりませんがと続ける瀬奈に頷くゆうひ。


残されるひろむの身を憂い、あれこれ思いを巡らす様子のゆうひを見やり、瀬奈は小さく囁いた。


「上様」


「?」


「御台様の事は私が何に替えても」


「・・そうだな」


瀬奈はゆうひから目を反らし、そっと呟く。


「愛しているんです」


目を見開いたゆうひは、ひろむには伝えたのか?と問う。

否と首を振り、瀬奈はひろむには言わないで欲しいと。


「これ以上、あの方を縛りたくないのです」


強情で、素直になれない二人が悲しくも愛おしかった。


再び愛しい人の顔を思い巡らす。

一生を大奥に囚われるのか、あの男の元へ戻るのか、愛憎に苦しむ道を選ぶのか・・・


そのどこにも自分がいない事を知り、耐え難い喪失感に目の前が暗くなる。


「死にたくない」


産まれて初めてそう思った。


思い出すのは笑顔ばかりで、ほとんど視力を失った瞳から涙が流れ落ちた。

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