天使とラムレーズン
須藤美保
第1話
やっと札幌でも、昼間は半袖を着られるようになるくらい暖かくなってきた、5月最後の土曜の夕方5時、僕は、家に一番近いレンタルショップで、『ロミオとジュリエット』のDVDを探していた。
ディカプリオではなく、オリビア・ハッセーの古い方だ。
その時、彼女に出会った。
彼女は、ディカプリオの方の『ロミオとジュリエット』を探していた。
偶然にも同じ棚にあった2つを、ほぼ同時に手に取った。
彼女は、軽く頭を下げた。どういう意味かは、わからなかったが、僕も合わせるように頭を下げた。
「そっちは、もう観たんです」
透き通った響く声の彼女は、ショートボブの髪に少し隠れた、右耳の揺れているピアスを触りながら言った。
「僕も、そっちは、観ました」
そう言うと、彼女は、胸元にDVDを持ち、
「もし良かったら、それぞれお互い観終わった感想を言い合いませんか?」
と言った。
身長は、160cmくらいだろう。綺麗な二重の美しい人だった。
僕は、半信半疑で、
「良いですよ」
とだけ言った。
「じゃあ明日また、この時間にここで」
彼女は、ディカプリオ版のロミオとジュリエットのDVDを持って、振り返る事もなくレジカウンターの方へ向かって行った。
ある意味、逆ナンだよなぁと思いつつ、リーアム・ニーソンのアクションサスペンスと共にオリビア・ハッセー版のロミオとジュリエットを借りるために、レジカウンターに行った。
僕は、どちらかと言うとインドア派だ。身長は、189cmもあるのに、スポーツは人並みくらいで、みんなにもったいないと言われ続ける人生を過ごしてきた。
映画や音楽、フィクションの小説、芸術鑑賞が好きで、ギターならば、今でも弾ける。
高校時代は、バンドを組んでいたが、仲間は、卒業する時に、進路がバラバラで、解散を余儀なくされた。
今はみんな何をしているんだろう?
あんなに毎日一緒にいたのに、高校卒業後は、疎遠になってしまった。不思議なものだ。
当時、同じクラスの、男には人気のあった女の子に告られて、その子と付き合っていた。バンドの練習にもついてきていた。
その彼女とは、高校3年間続いた。
彼女は、東京の大学に行くことになってしまって、新千歳空港で見送った時は、泣きながらさようならした。
今思えば遠恋でも良かったのになと思ったりするが、これが男の悪いところかも知れない。いつまでも、付き合っていた子は自分の事が好きだと思ってしまう妄想。
潔く、あれはあれで良かったんだと自分に言い聞かせている自分がいた。
大学生活に、彼女は居なかった。
この身長で、寄ってくる女の子はいたが、イメージと中身が違い過ぎるんだろう、すぐ他の男と付き合ってたりしていた。
そんなことが、日常茶飯事だった。
女友達は、多い気がする。僕には姉が二人いて、なんとなく自分でも、三女のような面がある気がしていて、親しくなると女性に対して無害と思われる存在らしい。数人の女友達に言われたが、僕は女心がよくわかるらしい。
本当か?
それならば、彼女が出来なかったのは、何故だったんだろう。女心がわかっているのかも、わからない。不思議だった。
就職してからは、働き始めてすぐ、同じ職場の受付事務をしていた子と付き合っていた。今思えば本当に付き合っていたのか曖昧だった。
会うたびに、「私、かずくん一筋だから」と言ってくるような子だった。
その付き合いが、3ヶ月くらい経ったある日の日曜、彼女とランチをしている時に、彼女がスマホの写真を見せてくれたのだが、僕との2ショットのすぐ後に違う男との2ショットの写真が出てきた。僕はなんとも思わなかったのだが、彼女が慌ててスマホを消し言い訳を始めた。
苦笑いで、元カレの写真まだ残ってた等と言っていたが、そのスマホはこの間、一緒に買いに行ったばかりだった事を思い出した。 二股か…と冷静な自分がいた。
そして彼女は慌てて、「トイレに行ってくる」と言って、席を立ったが、何分経っても戻って来ず、電話をすると、「ごめんなさい」とだけ言われた。僕を残して帰っていたのだ。
次の日職場へ行くと、彼女は、退職届を出して辞めていた。
他の事務の子に理由を聞かれたが、「わからない」としか言えなかった。
原因が、二股交際だったとしたら、そんな理由で仕事を辞めてしまうなんて凄いなと思った。後味の悪い終わり方だった。
その後は、なんとなく時間が流れ、これといった出会いもなく、彼女が出来る事は無かった。もう、3年近く経つ。
レンタルショップから家に帰り、冷蔵庫から缶ビールを出すと、ワンルームの中央に置いてあるテーブルに置き座った。
手を洗っていない事に気付き、洗面所に向かった時、左足の小指を家具の角にぶつけた。あの超痛いやつだ。
僕は無言で少しの間、踞り、痛みが去っていくのを待った。
無事に手を洗い、缶ビールのもとに戻りリングプルを開けると、一口飲んだ。そして、レンタルショップで、あの彼女に会った事で、夕食の買い物をする事もすっかり忘れていた事にやっと気付いた。相当な上の空状態だ。
「何やってるんだ、俺」
思わず、ひとり言を言ってしまった。
夕食は、ストックしていたカップ麺を探し食べる事にした。
いつもは、自炊しているが、冷蔵庫の中は、食材が殆んど無かったからだ。
Blu-rayプレイヤーに、ロミオとジュリエットのディスクを入れ、観始めた。
なぜ急にロミオとジュリエットを選んだのか?純愛の話が観たくなったからだ。
観ながら今、ディカプリオ版のロミオとジュリエットを観ているであろう彼女の事を考えていた。
古い方のロミオとジュリエットを観ていたなんて渋いなと思っていた。年は多分、下だろう。
他にも何か借りていたのかな?と思いながら缶ビールを飲み干した。
今、自分の中では、たった何秒かしか言葉を交わしていないのに、彼女に好意を持っている事は確かだった。目が綺麗で魅力的な女性だった。気のせいかもしれないが、頭を下げた時、不思議と何か心が通じているような感覚もあった。彼女から声をかけてきたわけだし、少なくとも、多少の好意はあったんじゃないかと思っていた。
明日は休みだった。
時間的に夕食の時間だろう、その時は、どうしたらいいんだろう?
看護師をしている2番目の姉に聞いてみようと思った。
スマホを操作して次女に電話した。
僕は、家族の中で、2番目の姉と一番仲が良い。
もう何年も前に結婚して、子どももいて、小児科に勤務している。
5コール目で出た。
「千晴さん、今話して大丈夫?」
姉の名前は、千尋と千晴だ。二人は、お姉さんとか呼ばれるのをひどく嫌って、僕は物心ついたころには、二人をさん付けで呼んでいた。
「ごめん、急ぎ?」
電話の向こうが、ガヤガヤしていた。
「忙しいんならいいんだ、また電話する」
「うん。ごめんね」
と言うと、千晴さんは、電話を切った。
よく考えると実際、姉に見ず知らずの女の子に声をかけられてどうしよう?という内容を、上手く説明出来たかわからなかったので良かった、と思っていた。
質素な食事を終え、ロミオとジュリエットを観終わるとすぐ、リーアム・ニーソンのDVDを観た。
ロミオとジュリエットは、観たかった純愛だったけれど、悲し過ぎた。それがリーアム・ニーソンで、中和されるような気がした。
僕は、映画を観始めると止まらない。しかし、自分の趣味に合わない物を観ていると眠ってしまう。
それが、自分の感じる、その作品の面白さのバロメーターだった。
リーアム・ニーソンは、相変わらずの安定感だった。居眠りする暇など与えない。
観終わると、なんだか物足りなくて、持っているBlu-rayやDVDのコレクションの中から、『ボーン・アイデンティティー』を出して観ていた。
何度見ても、飽きない作品だ。
いつもだったら、自転車で、レンタルショップにまた違うDVDを借りに行きたいくらいの気分だったが、もうビールを飲んで、ほろ酔い気分だったので、止めておいた。
時計を見ると12時を過ぎていた。
シャワーも面倒になり、歯磨きをして、布団を出して潜り込んだ。
レンタルショップで会った彼女のピアスの形が印象的だった。
でも、本当に言葉通り明日行って、彼女に会えるのか不安になってきた。
まあDVDを返却する時間を5時にすれば良いだけだしと言い訳っぽい事を思いながら、眠りについた。
僕は、街の古くからある内科の病院で経理をしている。土曜は隔週で、日曜は休みだ。
働き始めて3年、25歳になる。
上の姉は、歯科助手をしていて、なんとなく自分も医療系の分野で働きたいと思っていた。
特に医療系の資格を必要としないが、まあまあの給料で、休みも安定しているので、自分では、納得して働いている。
目が覚めると、朝の6時だった。毎朝起きる時間だ。休みの日でも目が覚めるようになった。
枕元のスマホを見ると、千晴さんからLINEのメッセージが来ていた。
『なんか相談?』
僕が昨日電話した、すぐ後に送られていた。
寝ぼけながら、
『夕方5時ってことは、食事もするかな?』
と主語も何も無く、メッセージを送っていた。
まだ眠かったので、布団に再び潜り込んだ。
再び目覚めると、9時だった。
スマホを見ると、
『はぁ?意味不明』
と千晴さんからのメッセージが来ていた。
『女の子にでも誘われた?そりゃあ時間的に、流れで食事か飲みだね』
と続いていた。さすが姉、鋭いと思った。
僕は、
『ありがとう』
とだけ返事をし、布団を片付けて、シャワーを浴びた。
冷凍庫に食パンが1枚だけあったので、トーストして、コーヒーを淹れて朝食を済ませると、近所のスーパーに、自転車で、食料の買い出しに出掛けた。
適当に食材をかごに入れ、会計を済ませると帰り道、クリーニング店に出していたYシャツを取りに行き帰宅した。
野菜たっぷりの焼きそばを作り昼食を済ませると、洗濯でもするかなと思いながら、自分が主婦みたいな気分になっていて、少し憂鬱になった。
両親が共働きだったので、小さい時から、家事は、子どもたちで、分担してやっていたから、就職して実家を出てからも困る事は殆んど無かった。
5時に近づくにつれ、気持ちがソワソワしてきた。
徒歩でレンタルショップに行くと、4時50分だった。
少し早かったかなと思ったが、DVDを返却していると、昨日の彼女が店内に入ってくるところだった。
彼女が僕に気付くと微笑んで、右手を上げレジカウンターに近づいてきた。僕もつられて、右手を上げた。
今日は、小さめのピアスをしていた。
彼女もDVDを返却すると、
「向かいのカフェに行きませんか?」
と聞かれた。
「行きましょう」
と僕が言うと、また微笑み、僕の隣へ来て、歩きだした。
行った事が無いカフェだった。最近出来たのかもしれない。
店内に入ると静かにジャズが流れていた。
向かい合わせに席につき、二人ともカフェオレを頼むと、彼女が口を開いた。
「赤石ひなのです」
「川原千仁(かずひと)です」
とバッグから、名刺を出した。彼女は受け取ると、
「あ、ごめんなさい。私名刺は持っていないです。大学生です」
と、バッグから、学生証を出した。見たことがある懐かしい学生証だった、僕と同じ大学のだ。
「俺の後輩だよ。何年生?」
と聞いた。彼女は驚き、
「本当ですか?2年です」
と言った。
「大人っぽいね。年下とは思ったけど」
運ばれてきたカフェオレを飲みながら言った。
「なんで昨日は、ロミオとジュリエットだったの?」
僕が聞くと彼女は、
「純愛の話が観たくなったから」
と言った。僕と同じ考えでびっくりした。
「若いのに古い方のロミオとジュリエット観てるなんて、映画好きなんだね」
驚いているのを隠そうとうつむきながら聞いた。
「私の母が好きで、何度も一緒に観せられました」
と言った。
「そうなんだ。ディカプリオ版はどうだった?もしかしてファン?」
と僕が聞くと、
「特にファンではないですけど、ロミオが、凄く綺麗でビックリしました」
と言うと、
「俺も、ジュリエットが美しくてビックリした」
彼女は、テーブルの上に右腕の肘をつけ、手の平をこちらに向けた。ロミオとジュリエットの有名なシーンだと思った。
「神聖なシーンだよね」
僕が答えると、彼女は手を下ろしクスクスっと笑って、
「でも、『96時間』も持ってましたよね」
と言った。
「ああいう作品も好きなんだ」
と、隠し事を見付けられてしまったかのように、頭をかいている、僕がいた。
「私も好きです。アクションとサスペンスみたいな映画」
「『96時間』観た後、物足りなくて、『ボーン・アイデンティティー』観たよ」
「そうなんですか?また借りに行ったんですか?」
「いや、ボーンシリーズはBlu-rayで持ってる」
と僕が言うと、
「えー、私まだ全部観てないです」
と言った。
「じゃあ今度、うちに観に来る?」
急に話の流れで無意識に出てしまった言葉だった。調子に乗ってしまったと思った。
「あ、ごめん。初対面でそれは無いよね。ちょっと言い過ぎた、深い意味は無いよ、貸してもいいし」
と慌てて付け加えるように言った。
「そんな事無いです。嬉しいです」
と彼女は、また昨日みたいに、右耳のピアスを触りながら言った。
少し沈黙があった。
「映画が好きなのは、母の影響です。よく連れて行ってもらったし、それが楽しみでもありました」
と彼女から口を開いた。
「そうなんだ。俺は一人で観る事が多いかな?」
「もう、あっけなく亡くなってしまったんですけど」
「え?」
「高3の夏休みに、ガンで亡くなりました」
彼女は、顔を上げて笑顔で言った。
「じゃあ今は、お父さんと?」
僕が聞くと、
「いえ、母子家庭でした。兄弟もいなくて、今一人です」
急に切ない気持ちになった。次に、僕はなんて言ったらいいんだろうと思った。
「ごめんなさい、急にしんみりした話になっちゃって」
「そんな事ないよ。話してくれてありがとう」
僕が言うと、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
僕は慌てて、持っていたハンカチを渡すと、彼女は両手で、大事な物を渡されたように受け取った。
「そうだ、お腹空いてない?」
僕は、出来るだけ明るい感じで彼女に聞いた。
「少し空いてるかも」
彼女は、こぼれた涙をハンカチは使わずに、指で拭って言った。
「イタリアンは好き?少し歩くけど美味しいところあるんだ」
僕が言うと、彼女は頷き、
「好きです。食べに行きたいです」
と言った。
二人でカフェオレを飲み干すと、カフェを出た。
「ちょっと待って」
歩きだす彼女に、声をかけた。彼女は首を傾げると、僕は、
「席が空いてるか聞いてみるよ」
とスマホを出した。
電話をしてみるとちょうどカウンター席が空いたようで、10分後くらいに着く事を伝えると、取っておいてくれると言ってもらえた。
「カウンター席なんだけどいいかな?」
お店の人に待ってもらって、彼女に聞くと、頷いてくれた。
店へ歩きだすと彼女が、
「川原さんて、優しいですね」
と言った。
「えー?普通だよ」
と実は照れながら言った。
「私昨日、ロミオとジュリエットを手に取る川原さんを見て、本能的にこの人とお話してみたいって、思ったんです。思いきって声をかけて良かった」
と彼女は、胸に手を当てて言った。
僕を見上げる彼女の目は、まだ少し潤んでいて、キラキラしていて、思わず抱きしめたくなる衝動にかられた。
「昨日は、正直言うとビックリして、買い物もせずに帰って、夕食はカップ麺だったよ」
と、自分の気持ちを、誤魔化すように笑いながら言った。
彼女は、フフフと笑い。
「そして、3本も映画観たんですね」
と、無邪気な顔で言った。
曲がり角があるとこっち、と言いながら無事イタリアンのお店に着き、僕がドアを開けると、凄く混んでいて、席が空くのを待っている人もいて、ビックリした。
店員さんに名前を告げると席に案内された。
カウンターに並んで座ると、サラダとピザとパスタを一品ずつ頼んで、
「赤石さんは、もう、二十歳?お酒飲めるの?」
と聞いた。
「はい、少しだったら」
と彼女が言ったので、グラスでシャンパンを二つ頼んだ。
シャンパンで乾杯すると、彼女が、
「美味しい。シャンパン初めて飲みました」
と言った。
僕は、冷静を装っていたが、とにかく緊張していた。
今、目の前にいる彼女が好きだと思った。
彼女はどう思っているのだろう?そればかり考えていた。シャンパンの味も料理の味もわからず、時間が止まればいいと思っていた。
「川原さん?」
彼女が何か僕に言っていたようだった。
「何?」
「美味しいですね」
さっきの涙した顔から、明るい顔に変わっていて安心した。
昨日は、美しいと思っていたが、こう間近で見ると、まだ10代の名残りがある可愛らしいあどけない雰囲気もあった。シャンパンで酔ったのか、頬が少し赤くなっていて、一段と可愛いかった。
「連れてきて、良かった」
僕が言うと彼女が、照れくさそうに笑いながら、
「良かったら、連絡先交換しませんか?」
とスマホを出して言ってくれた。
「うん。ぜひ」
お互いの電話番号とLINEのIDを交換した。
「俺は、いつでも連絡くれていいよ」
「何時でも?」
彼女が、僕の顔を覗き込むように言った。
「あ、仕事中は、すぐに電話は出られないかもしれない。その時間以外だったらいつでもいいよ」
「わかりました」
と彼女が言った。
「そろそろ出ようか?」
僕が言うと、彼女は頷いた。
お会計は、さっきトイレに立ったフリをして済ませておいた。
店員に「ごちそうさま」と言いながら店を出ようとすると、
「お会計は?」
と彼女が不安げに僕を見た。
「大丈夫、済ませてあるよ」
と言うと、
「え、割り勘にしてください」
と彼女が言った。
「いいよ、俺が誘ったんだし、次に会う時に奢って?とりあえず店を出よう」
と僕が言うと、
「わかりました。ごちそうさまでした」
とペコリと彼女が頭を下げて、店を出た。
「家まで送るよ」
僕が言うと、
「ありがとうございます」
と彼女がいい、今来た道をレンタルショップの方へ歩いていった。
「家は、どの辺?」
僕が聞くと、
「えっと、商店街のスーパーの近くにクリーニング屋さんあるの、わかりますか?」
「うん分かるよ、今日行ってきた」
「ホントですか?そのビルの3階です」
「へぇー、結構近くに住んでたんだね」
「そうなんですか?スーパーですれ違ってたかも?」
「住んでどれくらい?」
「去年、引っ越してきました」
「そうなんだ、俺は、3年前」
「じゃあそんなには、遭遇してないかもしれなかったですね」
「昨日、DVDレンタルしに行って良かった」
僕がしみじみ言うと、
「私もです」
と彼女が言った。
スーパーが近付いてきて、
「そう言えば、ドルチェ頼まなかったですね」
と彼女は言うと、
「スーパーで、アイスでも買って帰りますか?」
と続けた。
「うん。そうしよう」
僕が、賛成すると、嬉しそうに、
「私、ラムレーズンのアイスが好きです」
と言った。
「美味しいよね」
僕が答える。
スーパーに到着して、ラムレーズンのアイスを探すと、色々な味のカップアイスが6個入ったその中にラムレーズンが入ってる物があった。
「じゃあ、これ買ってうちで一緒に食べましょう」
と彼女は言いながら、さっさとレジに持って行き、お会計をしていた。
僕が少し唖然としていて、思わず、
「いやいや、ちょっと待って」
と言った。
「ダメですか?」
彼女が言うと、
「ダメじゃないけど、もう遅いし帰ろう。1個貰って、自分の家で食べるよ」
僕は、まさに及び腰だった。
「赤石さんは、お酒弱いね?酔ってるんでしょ?」
と言うと、スーパーを出て、クリーニング店に向かった。
「少し酔ってますけど、大丈夫ですよ?」
「じゃあさ、また今度アイスを一緒に食べよう、これ1つ貰って行くよ」
とスーパーのレジ袋の中から、何味かわからなかったが、1個アイスを取り、クリーニング店の裏にあったオートロックの入り口まで、彼女を送った。
「今日はありがとう、おやすみ」
僕が言うと、
「こちらこそ、ごちそうさまでした」
と彼女は少し名残惜しそうに頭を下げ、右手を振ると自分の部屋へ帰っていった。
僕の頭の中は、パンパンだった。
彼女は、僕を部屋に招き入れてくれるつもりだったんだ。きっと彼女も、僕に好意を持ってくれていると確信していた。
商店街に戻り家に着くと、右手に持っていたカップアイスが、柔らかくなっているのに気付いた。よく見ると、バニラだった。冷凍庫にそれを入れると、スマホが鳴った。彼女からだった。
「いつでもいいって、言ってくれたので、電話しちゃいました。もう、家に着きましたか?ラムレーズン美味しかったですよ」
「今着いたところだよ。俺のは、バニラだった」
「じゃあ、もう1つ入ってたラムレーズンは川原さんの分にとっておきます」
彼女は言うと、
「私、大事な事聞いて無かったんです」
と、続けた、
「え?何?」
僕は、何を聞かれるのか一気に緊張した。
「川原さん、独身ですよね」
「うん、もちろん」
「良かった、あ、彼女さんは、居ますか?」
「居ないよ、もう、3年くらい」
「おいくつなんですか?」
「この前25になったよ」
しばらく沈黙が続いた。
「あの、また食事とか連れて行ってくれますか?」
「うん、もちろん」
「今度は、私が案内します」
「楽しみにしてるよ」
「はい!それじゃあ…おやすみなさい」
「おやすみ」
と言うと、電話を切った。
その瞬間、僕は叫びだしそうな衝動にかられた。
もっと素直に、おやすみだけじゃなく、伝えたい事があるはずなのに。自分の不甲斐なさに腹が立った。
彼女は、部屋に入れようとしてくれたのに、やんわり断り、電話までさせて、彼女が居るのかまで聞かせて、僕は何一つ、彼女に近付こうとしていない。
どうしようかと思った。今は彼女と一緒にラムレーズンを食べたい、そう思った。
たった今切ったばかりのスマホの画面を再び出し、電話してみようと思った。
もう、おやすみの挨拶もしたのに、しつこいかもしれないと不安になる。でももし今、地震でもおきて、彼女と会えなくなったら…等と思いを逡巡していると、スマホが鳴った。
千晴さんからだった。出るとすぐに、
「デートはどうだった?」
と聞かれた。
「え?」
「とぼけてもムダ。食事行ったんでしょ?」
「今、無理。またこっちから電話するから」
「あ、ごめん。じゃあね」
「あー、待って!おやすみしちゃったんだけど、電話しても大丈夫かな?」
「は?気になるなら、してみたら?」
「分かった。ありがとう」
スマホを切ると、すぐ彼女に、電話してみた。
3コール目で出た彼女は、
「眠れそうにないの」
ともしもしとも言わずいきなり、こう言った。
「俺も眠れなさそう」
「あの…」
「あの…」
二人同時に言った。
「俺から言うよ。バニラを一人で食べるんじゃなくて、ラムレーズンを食べたい」
「え?」
「あ、赤石さんは、何を言おうとしてたの?」
「もう少し、川原さんとお話したいって言おうとしてました」
じゃあ、電話でもう少し話そうか?と言いそうになったが、
「これから、赤石さんの部屋に向かうよ、いい?」
と言った。
「はい、わかりました」
彼女が言うと、
「すぐに行くから」
「待ってます」
僕は、電話を切ると、とりあえずスマホと財布と鍵をポケットに入れて、急いで自転車を出し、クリーニング店に向かった。
こんなに近くに、こんなに好きになる女性がいた。これは運命に違いない。そう思いながらペダルをこいだ。
何分で着いたんだろうか。あっという間だった。自転車を置くと、彼女は、ネイビーのジェラートピケを着て、サンダルという格好で、1階の自動ドアのところまで来ていてくれた。ドアが開くと、
「部屋番号教えてなかったから…」
彼女が言い終わる寸前に、僕は彼女を抱きしめた。
「こうしたかったんだ、もう何時間も前から」
と僕は彼女に言った。
「川原さん、苦しいです」
彼女は、僕の胸の辺りに顔を埋め言った,
「ごめん」
僕が抱きしめた腕を緩めると、今度は彼女が抱きついてきた。
しばらくして離れると、
「部屋、こっちです」
と言って、僕の上着の右手の袖口を掴んで、誘導していた。エレベーターは無く階段だった。
3階まで上がり、
「ここです」
と言うと、彼女はドアを開け、
「どうぞ」
と彼女がサンダルを脱ぎ、玄関に上がったところで、僕は、彼女を引き寄せキスをした。
彼女は、ビックリして目を丸くしていたが、僕がキスを止めないので、ゆっくり目を閉じた。僕の頬に彼女のまつげが触れた。脳みそが溶けそうなくらいに甘いキスだった。
「赤石ひなのさん」
僕が言うと、
「はい」
と彼女がいい、
「俺の大切な彼女になってほしい」
と言った。すると彼女は、
「はい、よろしくお願いします」
と言った。
僕がもう一度キスすると、彼女は、
「誓いのキス?」
と言って右手の手のひらを出した。僕がその手のひらに左手を合わせると彼女は笑った。
彼女の部屋は、殺風景な印象だった。
二人掛けのソファーがあって、僕の部屋より、1部屋多いようだった。
「あまり物を持ってないの、座って」
彼女が、僕の様子を見て言った。僕は、促されるようにソファーに座った。
「部屋が広いなと思って」
「だいぶ荷物処分しちゃったから」
彼女が言った。そして僕の側に座り、
「私さっき、考えてたの、あなたをなんて呼ぼうかと思って」
と言った。
彼女の発した゛あなた゛という言葉に、初めて彼女が僕の大切な人になった実感がわいた。
「呼んでみて?」
僕が言うと、彼女が、
「かずひ」
と恥ずかしそうに言った。
「そんな呼ばれ方、初めてだ」
笑いながら言うと、
「普通の呼び方したくないの。私だけの呼び方で、呼びたい」
「うん、分かった。好きな呼び方して」
「ありがとう。かずひは?」
「なんて呼ぼう?ひなのちゃん、ひなの、ひな、なの…」
「なのがいい」
「なの?」
「かずひだけの、私の呼び方」
「いいよ、なの」
と、僕が言うと、なのは、冷凍庫からラムレーズンのアイスを出してきた。
「食べる?」
「うん。食べる」
僕が答えると、スプーンを持ってきて、僕に一口食べさせてくれた。すると、僕はアイスを飲み込むのを待たずなのにキスをした。
その後は、キスが止まらず、ラムレーズンを食べてはキス、口を拭いてはキスと自分のキス魔っぷりに驚いていた。
出会えなかった時間を埋めるように、キスをした。
「なの?」
「何?」
「好きだよ」
「私も、かずひが好き」
「出会って1日とちょっとしか経ってないのに、お互い何も知らないのに、なんでだろ?」
「これから知れば、良いんじゃない?」
「そうだね。あ、まず言っとくけど俺、スポーツは、あまり出来ないインドア派だからね」
「え?」
「ほら、身長があるから、誤解されるんだ。それでもいい?」
「そんな事、気にならないよ」
「良かった」
「明日はかずひ、仕事だよね」
「うん」
「泊まれないよね?」
「朝早く起こして良いなら、泊まる」
「いいの?」
「6時に起きるよ。それでもいい?」
「うん。かまわない」
「泊まる用意してないけど」
「あ、分かった!私がかずひの部屋に行けばいいんじゃない?」
「これから?」
「うん、もうパジャマだけど、着替えるから、待ってて。歯ブラシ持ってく」
と言うと立ち上がり、もう1つの部屋に入っていった。僕に一言も言わせる隙も与えずに。
しばらくすると、Tシャツにパーカーとジーンズというスタイルに、リュックをしょって出てきた。
そしてまた、違う場所から歯ブラシを持って出てきた。
「さあ、かずひ行こ」
「なの、凄いね」
「かずひと一緒なら、夜遅くても、外に出ても大丈夫でしょ?」
と、左手を出した。僕はその左手を掴みソファーから立ち上がった。
外に出ると、スーパーは閉店していた。
僕は自転車を押しながら、なのを連れて商店街を歩いた。
「俺んち、あれ。グリーンのレンガみたいな建物」
ずっと、向こうにちらっと見える僕のアパートを指差した。
「こんなに近くに住んでたんだね」
なのが言うと、
「出会うのも時間の問題だったかな?」
と僕が言った。
「そうだね」
しばらく無言で歩くと、地震なんか起きる事もなく、無事に僕のアパートに到着した。
「2階だよ」
と、なのを案内した。
「俺んちも、あんまり物は無いかも」
と、言うとなのが、
「お邪魔します」
と言いながら上がってきた。
「なの、コーヒーでも飲む?」
僕が聞くと、
「眠れなくなるかもしれないから…」
「じゃあ、ホットミルクは?」
「うん、もらう」
「適当に座って」
僕が言うと、なのは、リュックを下ろし、テーブルの横にちょこんと座った。
形の違うマグカップ2つに牛乳を注ぎ、電子レンジで温めると、テーブルに置いた。
「ありがとう」
僕は、なのの側に座った。
「DVD、いっぱいあるね」
カフェでは気付かなかったが、猫舌なのか、なのは、慎重にフーフーしながらホットミルクを飲んだ。その姿が、可愛い過ぎて、抱きしめたくなった。
「なの、可愛い過ぎ」
僕が言うと、
「え?」
と、こちらを向いたなのは、本当に無防備な顔をしていた。メイクも落としていて、まだ見た事がない、素の顔なんだろうと思った。
僕は、なのが持っているマグカップを取り、テーブルに置くと、そのままなのを抱きしめた。
「かずひ、苦しいよ」
なのは、もがいたが、僕は手を緩めなかった。 手を緩めると、なのは、
「私、初めてなの、男の人と付き合うの」
と僕の肩越しに言った。僕が、
「うん、そうかな?と思った」
「うん」
「大切にするよ、なの」
と僕が言うと、なのは、
「着替えてくる。お風呂のとこ借りるね」
と、リュックをしょって、バスルームの方に行った。
10時を少し過ぎた頃だった。
なのは、さっき着ていたジェラートピケに着替えてくると、僕の隣に体育座りした。
「もうね実は、ちょっと眠たい」
なのは、ホットミルクを飲んでそう言うと、
「これ飲んだら、寝よう」
と言った。
「うん。布団一つしかなくて狭いけどいい?」
僕が聞くと、なのは、頷いた。
二人で歯磨きすると、布団を出してきて、二人で潜った。
なのは、僕に身を委ねると、僕はなのを包みこむように抱きしめた。なのの鼓動が聞こえた。
「怖い?」
僕が聞くと、
「ううん、ちょっとドキドキしてるだけ」
と言った。
僕は、おやすみと言って、なのにキスをした。
なのは、少しかすれた声で、おやすみと言った。
僕は、急ぐ事はないと思った。男と付き合うのが初めてだというまだ、二十歳の女の子だ、大切に愛を育んでいこうと思った。
すると、なのが、小さな声で、
「あ」
と言った。
「どうした?」
僕が言うと、恥ずかしそうに、
「私、歯ぎしりが酷いらしいの、うるさかったら、起こしてね」
と言った。
「うん。分かったよ」
と僕は、なのの頬を撫でた。
しばらくすると、小さななのの寝息が聞こえてきた。なのの寝顔が天使のようだった。
僕もいい夢を見られるように目を瞑った。
スマホのアラームが鳴り目を覚ますと、なのが、僕の顔を見ていた。
「おはよ」
なのは言うと、僕も、
「おはよう」
と言った。
「かずひを観察してた」
となのは言った。
「歯ぎしりなんてしてなかったよ。天使みたいな寝顔だった」
「天使!?」
となのが言って笑った。
「ホントにそう思ったんだ」
「かずひは、少年のようだったよ」
なんだか照れくさかった。
「少年か」
と僕が笑うと、
「いつもこんなに早いの?」
となのが聞いてきた。
「働いてる病院、バスでしか行けなくて本数少ないんだ」
「そうなんだ」
「ちょっとシャワー浴びてくる」
僕は布団を出ると急いでシャワーを浴びた。
出てくるとコーヒーのいい香りがした。
「コーヒー淹れたよ」
なのが言い、何かを探してるように見えた。
「どうした?」
こちらを向いたなのは、言葉を発する事は無かったが、言いたい事は不安げな顔に書いてあるように見えた。
しばらくして、
「本当に、私でいいの?」
呟くように、少し震えた声で、なのは言った。そう、顔に書いてある言葉を発した。
「君しかいないんだ」
僕が答えると、なのは、微笑んで、
「昨日の事が、夢みたいな気がしたから」
と言った。
「夢じゃないよ、なの大好きだよ」
僕は、なのに改めて言葉で伝えた。
「良かった、私もかずひが大好き」
朝日が差し込んできた僕の部屋でなのは、羽根は見えなかったけれど、僕の天使になった。
おわり
天使とラムレーズン 須藤美保 @ayoua_0730
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