第十七話「旦那様は暴君です」
第39話
それはまだ寧々と桐鵺が結婚して数ヶ月しか経っていなかった頃の話。
『朱すぎて、蒼』という有名作家、
「いや〜、やっぱり千草くんをキャストに選んで正解だったよ!」
既に酔っ払っている
しかしスタッフの誰もが知っている。
―――…千草桐鵺をキャストとして選んだのは、著者の霜月先生たっての希望だったということを。
小説の舞台はある殺人事件にヒロインの父親が加害者として巻き込まれ、刑務所に入れられたところから始まる。主な時系列としてはその10年後であり、探偵のヒーローがひょんなことでヒロインの父親の冤罪を証明する羽目になるのだが、それはヒーローの自殺して亡くなった父親もその事件に関係していて……という流れの話だ。
結末を言えば、ヒロインの父親は冤罪でヒーローの父親は彼の無実を証明しようとして自殺を装われて殺され、本当の犯人は政治家の秘書でその政治家の人物が裏で糸を引いていたというなんとも重苦しい内容のもの。
そのヒーローを桐鵺は演じたわけだが、正直この映画はあまり出演したくなかったのが本音だった。
もちろん理由は目の前にいる人物であり、業界でも黒い噂がある井守監督だ。
しかし出演した理由は著者の霜月先生たっての希望だったからだ。『多家良は千草桐鵺しか受け付けない!!』と言われれば、役者冥利に尽きる。桐鵺自身も俳優という職業は生きていくために行っているものしか過ぎないと思っていたので、それを嬉しいと感じるほどはこの仕事も愛着が湧いてきたのかと意外に思っていた。
「霜月先生も喜んでいらっしゃるようだ!やはり俺の目に狂いはなかったな!」
「ははは、そ、そうですね」
隣で飲んでいた助監督も苦笑いで彼の機嫌を伺っているのが丸分かりだ。正直言って桐鵺の気分は底辺の中でもさらに下のどん底に落ちきっていた。それでも笑顔を絶やさないのは流石と言うべきか。隣でちびちび酒を飲んでいたマネージャーである池崎静雄は感嘆した。
上機嫌な監督の機嫌を損なわないように細心の注意を払っている周りの人間は置いておいて、桐鵺はマイペースにオレンジジュースを飲んでいた。酒を勧めてくる監督を上手くいなしてはいたが、その理由にピンっときた井守雄三は『そういえば』と口火を切った。
「千草くんは新婚だったな」
その言葉に桐鵺はオレンジジュースが入っているグラスを持っていた方の手がピクッと跳ねた。空気が変わったと分かったのは桐鵺の隣にいた静雄だけだった。
―――…嫌な予感がする。
その予感がハズレではなかったと思った時には、既に遅かった。
「奥さんの寧々ちゃんとは仲良くやってるのか〜?」
「ええ、もちろんです」
表の桐鵺しか知らない相手からしたらこの笑顔は天使のような笑顔だと口を揃えて言うのだろうが、裏を知っている側からすればその笑顔の裏では『俺の寧々ちゃんを気安く呼ぶなんて何様のつもりだ?お前の脳内であの可愛い俺の寧々ちゃんを思い浮かべているだけで罪だ』と罵っていることだろう。これだけは間違いない、と静雄は思う。
「喧嘩とかしないのかぁ?」
「ええ。寧々はとても優しいので、喧嘩なんてとんでもない」
「でもまだ奥さん孕ませてないんだろ?」
グラスをテーブルに置いた桐鵺の表情を静雄は窺う。いや、その表情を直視する前に目を伏せた。
―――…ああ、やばい。非常にやばい。本当にやばい。
どうしてこの目の前にいるクソ野郎はそんな下品な言葉でしか口から出せないのか。ただでさえ、妻である寧々の手料理を一日食い損ねたと車の中で監督を呪い殺そうとしているのを必死に彼が止めたというのに、これではその苦労は取り損である。
―――…もう、俺は知らねえ。
ぐいっと彼は酒を煽った。
「……まだ2人を楽しみたいので」
「あっははは、まだまだ青いねぇ!」
「ははは、そうですかね」
「俺の経験だけどさ、女なんてもって三年で飽きるもんだよ」
「……へえ」
彼の表情なんて見たくてもわかる。不穏な空気が流れていることをこの場でわかっていないのは下品に笑っている当の本人くらいだろう。
そして彼は桐鵺の方に体を寄せて、声を小さくしながら言う。
「ああ、そうだ。千草くん。奥さんが孕んで、発散場所を探してるようだったらいつでも言ってくれ。俺が紹介してやるからさ」
ぽんっと肩を叩いた彼は下品に笑いながら、また酒を煽った。その隣にいる助監督はもう苦笑いを通り越して呆れ返っていた。
考えることを既に放棄している静雄は逆隣にいる出演者と団欒している。桐鵺は握っていた箸をトンっと箸置きに置いて、ゆっくりと監督に笑いかけた。
「……ええ、その時はぜひよろしくお願いします」
――――
―――
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