小話②「神崎栞のアシスタントの椎名伊織の受難」

第36話

――――…午前8時28分。



伊織いおり、準備は?」



「できてます!」



「彼は?」



「5分前にマネからもうすぐ着くって連絡きました!」



「入りは?」



「20分後です」



「時間」



「8時29分です」




彼女はこの仕事を始めてから、腕時計はアシスタントに付けてもらっている。タレントの商売道具である顔にその腕時計が当たってはいけないから。それと同時に腕時計の重さは仕事を完遂する過程で邪魔なのだ。



スマフォに何か連絡が入っていないかを確認する。待受画面は…………もちろん、strawberryだ。



画面を見ながらへらっと笑う彼女を見て、アシスタントの椎名伊織しいないおりは冷たい目で見下ろしていた。仕事を熟す栞のことは本当に尊敬している。この業界で栞の名前を知らない人はいない。だからこそ、彼女のアシスタントができることを本当に喜んだ伊織。





―――…だがしかし、蓋を開けてみれば、どうだろう。



女性限定のドルオタ主義の彼女は暇があればネットサーフィンでお気に入りのアイドルを追いかけ、さらに暇があればとても迷惑な出待ちファンと共にテレビ局の前で平気で待ったりする。彼女の部屋はアイドル部屋が存在し、CDが並べられている棚、等身大パネルが数体、抱き枕カバーなんてものも存在し、壁一面には引退している寧々のポスターは貼りつくされている。さらには握手会も平気で行ったりして知り合いのスタッフに驚かれたり……とまあ、本当に自分の価値を知らない行動をとる。



伊織はいつも頭を抱えていた。











だけど。




8時半。



控室の扉が開き、待ち侘びた人物が現れたその時だけは…………その時だけは、彼女は変わる。







「さ、戦争の始まりよ」




メイクブラシを手に取った彼女は美しい。真剣な瞳からは目が離せない。この人の背中に追いつきたい。そんな気持ち抱きながらも、きっと追いつけないという思いもある。



彼女の才能は誰にも超えられない。



魔法を使い熟す彼女を、きっと一生追いかけることになるだろう。でも伊織はそれで構わなかった。彼女の背中を追いかけられれば、それで。
















「ねえねえ、伊織」



「…………」



「もう、伊織ちゃん!」



「…………」



「やっだぁ、聞こえてるくせに、もう、意地悪ね〜」



「…………何ですか」



「うふふ、伊織ちゃん、あのね」



「あ、嫌です無理ですさようなら」



「やっだぁ!まだ何も言ってないじゃない!イケズ!」



無事、タレントが現場入りしたことを見届け、後のことを任せた二人は数少ない時間の休憩をとっていた。



栞がテンションの高い声で話しかけてくる時は大抵、そういう時だということは織込み済みである。だからこそ、伊織は即答で断るわけだ。…………まあ、それを突き通すことは出来た試しはないが。



缶コーヒーを片手に飲む伊織に笑顔で詰め寄り、期待の眼差しを送る様はご飯を待っている猫のようだ。




「これ、なーんだ!」



「何って、スマフォでは?」



「もう、そんなの分かってるわよ!」



『そうじゃなくて!』と怒っている彼女を冷めた目で見つつも、そのスマフォが彼女の物ではないことは一瞬で分かった。彼女のスマフォの機種とカバーを知らぬはずがない。



ではそのスマフォは誰の物なのか。






まさかとは思うが、まさか。









「まさかそれ……千草さんのじゃ」



―――…嫌な予感は当たる。やっぱり。



綺麗な彼女の目が光る。口端は妖しく上がり、その目はもう正常ではない何かを感じていた。




「うふふ、ご明察。ね、協力して」



「いやいやいや、それは無理です!!それだけは絶対に無理です!!」



「無理じゃない無理じゃない。全然無理じゃない」



「それ下手すれば、犯罪行為ですよ!?」



「大丈夫大丈夫。ただ、こいつのスマフォから可愛い可愛い寧々ちゃんの写真をちょちょっと盗むだけだから」



「盗むって言ってるし!!てか、それよりも千草さんのスマフォだけは本気でマズイですって!」



以前に千草桐鵺の弱点を探りたかったのか、スマフォを盗み見ようとした俳優のマネージャーがいて、それを運悪くスタッフに見つかったのか俳優諸共、芸能界から姿を消したことを伊織は知っていた。



自分も同じハメになることだけは絶対に避けなければならないという思いが勝る。栞は腕があるため火傷程度で済むかもしれないが、自分はもう終わりだ。だからこそ、彼女はその一旦を担えない。




「絶対無理ですからね!早く返してきてください!」



「え!やだやだ!!折角、こんな目の前にお宝写真データがあるのに、手離せるわけないじゃない!伊織、馬鹿なの!?」



「お前が馬鹿だよ!!」



この際、彼女に暴言を吐くことすら厭わない。



とにかく彼女を止めることが先決だと彼女の手からスマフォを奪い返そうとした時だった。











「何、してるの?栞」



「「あ」」




控室にいつの間にか戻ってきていた桐鵺がそれはもう清々しいほどの笑顔で自分のスマフォを取り合っている二人を見つめていた。否、見下ろしていた。



扉が開いたことにも全く気づかなかったことに、よりこの男の恐ろしさが刻まれた。



ぶるぶると震え始める伊織を他所に、栞は『あら、早かったわね。千草くん』と全く悪気のない顔で桐鵺を出迎えていた。



―――…いや、それが人様のスマフォを盗んだ者が取る態度か、ツッコんでやりたい。




「栞、お前……よっぽど、死にたいらしいな」



「あら、やだ。ここにスマフォを置き忘れたアンタがいけないんじゃなくて?こんなの、私の寧々ちゃんを見てくださいって言ってるようなものじゃない。いいえ、寧々ちゃんの写真を私に貰って欲しいんでしょう?早くそうだって白状しなさい、千草くん」



「は?何言ってんの?馬鹿なの?アホなの?脳みそないの?お前にやる寧々ちゃんの写真は一枚もないっつーの。つか、何、寧々ちゃんを自分のもの扱いしてるわけ?寧々ちゃんがお前のものだった時なんて1秒たりともなかったろ?寧々ちゃんが生まれた時から……いや、生まれる前から寧々ちゃんは俺のものだから」




「はあ?アンタこそ脳みそわいてんじゃないの?クソなの?グズなの?ポンコツなの?てか、大体、前から思ってたんだけど、私の寧々ちゃんのこの!!日常ショット!!!エプロンをつけてるだけで最強に可愛いのに、皿を洗ってる最中にスポンジから泡を飛ばしちゃって、鼻の上に泡がついちゃってるベストショット寧々ちゃんを私も欲しい!!この待受画面にしてる写真、3日前にもしてたよね!!」



「ふ、認めたくはないが、流石、栞だな。この寧々ちゃんの良さが分かるとは……。しかし、これ見よ!!昨日撮ったベストショット、寧々ちゃんの左45度からの横顔!さらには魚が上手に焼けた時の最高に嬉しそうな最上級の笑顔寧々ちゃん!!くっそかわ!!」



「やっだあああ!!何それええ!!最高っ!!アンタ、最高なの!!でかした!!寧々ちゃんの左から45度の横顔ショットは最高にも関わらず、その超自然体の天使の笑顔!!うわあああ、可愛すぎる、クソ可愛い!!頂戴!!」



「無理」



「それが無理」



「いや、それが無理」



「いや、だからそれが無理だから。くれ」





「……あの、仲良いのか悪いのか、どっちかにしてくれませんか、2人とも」



―――…神崎栞のアシスタント、椎名伊織の受難はまだまだ続く。

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